手のひらを広げ視線を落とす。
腕に名前の感覚が残っている。滑らかで、繊細で、華奢なくせにもちりと柔らかい。名前を抱いているとよく眠れる。あちこちからいい匂いがして、少し高い体温と少し速い心音に心が凪ぐ。
そんなくすぐったさに胸のあたりが悲鳴を上げる。掻きむしりたいような恥ずかしさと、抱きしめていたいようなぬくもり。相反する心を宥めるように、広げていた手のひらを硬く握り、朝ぼらけの中を寮へと戻った。
手早くシャワーを浴び、そっと部屋に戻る。普段起きる時間の五分前といったところか。木村、奥村を起こさぬよう静かに着替えをしていると、奥村のベッドで何か気配がした。
振り向くと、肘をついて中途半端に上体を起こした奥村が俺を見ていた。起こしてしまっただろうか。けどもう起きる時間だしセーフか? セーフだな。
結論を出し、普段通りに声をかける。
「はよ」
「⋯⋯朝帰りですか」
ああ、そう、この部屋に戻ってきたときから起きてたってワケ。
ピンときた俺は、「まーな。名前虐めたお前への当て付け」と語尾にハートマークを付けながらにやりと笑って答える。
この返答にあからさまに嫌な顔をした奥村は、更にぎろりと睨みを利かせて問うてくる。
「⋯⋯その噛み痕も当て付けですか? 苗字先輩からの」
「は?」
すっかり上体を起こした奥村が指差していたのは、着替え途中で露出されていた俺の肩のあたりだった。何の事かと首を捻って見てみると、僧帽筋の肩峰付着部付近にちいさな歯型が残っていた。
「⋯⋯?」
昨夜のことを思い返す。そういえば何度目かに体勢を変え対面座位を取っていたとき、必死に俺を受け止めながら声を抑えようとしていた名前が、このあたりに歯を立てていたような気がしなくもない。なんせ俺も夢中になっていたから、多少の痛みには注意を払っていなかった。
──ははっ、アイツこんなの残したのかよ。
思わずそう口に出してしまいそうになって、それを既で留める。しかし笑みまでは殺しきれず、口元は弧を描いていた。
それがまた気に食わなかったようで、奥村はぶすりと口を結ぶ。
「何ですかその顔は」
「べっつにー」
いつも「キスマークは上手く残らない」とか「わたしもたくさん痕つけてみたいのにな」とか「一也くんばっかりズルい」とか。散々言っておいて、噛み痕ときた。
嬉しく、可笑しく、愛おしい。
笑みだって浮かんでしまうというものである。
肩を隠すようにアンダーシャツを着てから、奥村を正面から見下ろす。
「なぁお前さ、なんでそんなに俺のこと目の敵にすんの? 俺が正捕手なのが気に食わねぇか? それとも主将の俺? 部内恋愛? ⋯⋯まぁ敵視すんのは勝手だし俺は構わねぇけど、あいつにまでつっかかんのはやめろ。今度何かあったら俺も黙ってねぇからな」
牽制。戒告。
強めの口調でそう告げるが、響いているのかいないのか。奥村の表情は読みにくく、何を考えているのか分からない。ユニフォームに袖を通しながら反応を待っていると、ややあってから奥村がぽつりと呟く。
「敵視⋯⋯ですか」
「? 違ぇの?」
「⋯⋯分かりません」
一瞬、目が点になった。
次いで呆れがやってきて、心の中で「おいおい、マジかよ」とツッコむ。心の中に留めたはずのそれはしかし、気付けば口を滑り出ていた。
「分からない⋯⋯ってお前なぁ。こんだけ態度に出しといて、分からないなんてことあるかよ? はは、何だそれ」
一周回って面白くなってしまい、けたけたと笑いながらベルトを締める。
「分かりませんけど⋯⋯先輩のそういうとろは無性に苛つきます」
「ははっ、そーなんだ。悪りぃけどこれが俺だからな、まぁせいぜい耐えてくれ」
「だから、そういうところがムカつくんです」
ダン! と机に拳でも振り下ろしそうな奥村の剣幕に笑っていると、木村の目覚まし時計が鳴りだし、木村がのそりと起きる。「おはよう⋯⋯ございます⋯⋯あれ、俺寝坊っすか?」とまだしぱしぱな目をしばたいていて、「大丈夫だよ。たまたま俺らが早かっただけ」と返す。
木村も起きたし、ここまでだな。
着替えも済んだことだし、必要な道具を持ち玄関へと向かう。部屋を出掛けに振り返り、奥村へと一言。
「つーかさぁ、奥村お前、もーちょっと自分の心と話してみろよ。チーム内に変な敵ばっか作ってたってつまんねーぞ。せっかく青道に居るんだ、もっと楽しめよ」
直後、ぱたんとドアの閉まる音。ドアの向こうに消えた奥村がどんな顔をしていたかは分からなかった。さて、今の話がどこまで奥村に伝わったか。
階段を下りながら、名前の歯型が残る肩に手を添え呟く。
「それはそうと⋯⋯さーて、名前にはこの痕のこと何て言ってやろうかな」
その口元には、いつもの笑みが浮かんでいた。