21.きみがみた幻日



 翌週、対市大戦を敗戦に終え、兄と向井くんの対決を見届けた。それから学校に戻ってきたわたしたちは、室内練習場でのミーティングを経て、それぞれ自由時間へと移行した。


「苗字ー」
「はーい?」


 渡辺先輩だった。ちょいちょい、と手招きされ、駆け寄る。


「明日御幸と決勝観てくるけど、苗字はどうする?」
「あ、行きま⋯⋯」


 ──行きます。
 そう答えている途中で、渡辺先輩が少し屈む。内緒話をするみたいに耳元に手をあてがわれ、ぽそり、呟く。


「ちなみに明日、うちでは裏で紅白戦やるみたいだよ。まだ内緒だけど」


 ちいさな囁きに、わたしは「えっ?!」と声を上げてしまった。わざわざ“内緒だ”と言っているのに、まったくどうして。

 慌てて口を押さえて見上げると、渡辺先輩はいつも通りの穏やかな表情をしていた。


「御幸たちもいるし偵察は大丈夫だから、苗字が観たいほうにしな」
「でも、それじゃあ、ナベちゃん先輩は⋯⋯?」
「俺は、偵察に行くよ。大丈夫。紅白戦も全員は出してやれないって言われてるし、ちゃんと自分で決めてるから」
「⋯⋯っ」
「心配してくれてありがとう」


 ふるふると首を振る。自然と視線が下がってしまった。

 優しいなあ。優しくて、敵わない。

 ──これは宿命だ。部員数の多い強豪校の。

 そう言ってしまえばどことなく格好が付くけれど、それはつまり、現時点で既に夏のレギュラーは厳しいと言われているようなものだ。

 レギュラーを夢見て。甲子園を夢見て。この高校に来た。高校生活を懸け打ち込んできた。夏はまだ先だというのに、それなのに。もう、宿命さだめを受け入れろというのか。

 厳しい。あまりにも、厳しい。


「それで、どうする?」
「あ⋯⋯えっと、うーん⋯⋯むむ⋯⋯身体ふたつにしたいです」
「ははっ」


 先輩が笑ったその背後から、近くでこの話を聞いていたらしい一也くんが顔を出す。


「名前、どっちも同じくらい観てぇんなら、お前こっちに残れ」
「?」
「俺が観れないほう観といて。そんで後で教えてくれよ、俺も気になるから」
「うん、わかった」
「ん、ありがとな」


 束の間、微笑んで。一也くんはすぐに渡辺先輩に向き直った。「ナベ、明日降谷も連れてくから」と普段の調子で話し始める一也くんを見て、そっとその場を離れる。

 渡辺先輩が向き合って決めたことだ。わたしが胸を痛ませたり切なくなったりするのは、ともすれば先輩に対する侮辱にさえ値する。

 わたしは、わたしに。できることをしよう。

 静かに決意を改め、室内練習場を出た。





 翌日、激アツの紅白戦──わたしはギャラリーのおじさんたちの「新入生の解説頼むよー」攻撃を躱しつつ、スコアを付けていた──を終え、スコアを欲しがりそうな一年生に声を掛ける。


「ねぇ奥村くん。あ、瀬戸くんもいる」


 彼と話すのは実に一週間振りだった。
 顔を合わせ難かったのは勿論例のひと悶着が原因、ではなくて、一也くんが「そういやお前、俺の肩噛んだだろ。奥村に見つかったぜ」なんてとびきり意地悪な笑顔で言ってきたからに他ならない。

 その時のわたしときたら、「すっげー百面相だったぜ。『え、噛んだ? わたしが? それを奥村くんに見られた? なんで?!』ってぜーんぶ顔に書いてあった」だったらしい。

 案の定不機嫌そうにわたしを見た奥村くんは、少し間を取ってから口を開いた。


「頑固で細かい俺に何の用ですか」
「あはっ、この間のこと根に持ってる」


 どうやら肩の痕のことではないらしい。
 先週、彼とすったもんだを繰り広げた際のことだ。一也くんに最初に詳細を問われ、咄嗟にはぐらかそうとして、奥村くんのことを「頑固で細かい」などと適当こいて嫌味を言ったものだから、それを根に持っているのだろう。


「もう⋯⋯あれは痛み分けでしょ。むしろわたしの嫌味なんて可愛いじゃん」


 奥村くんも結構子供っぽいところあるんだな。なんて自分の発言を棚に上げ笑っていると、彼から鋭い視線が飛んでくる。


「⋯⋯アンタも、あの人も⋯⋯なんでそうやってヘラヘラしてられるんですか。俺、結構なこと言ったと思いますけど」
「へ、へらへら?」


 え、して、る? へらへら?

 ぺたりぺたり、両手で自分の顔を触り、筋肉が必要以上に弛緩していないか確認する。大丈夫そうだ。へらへらなどしていない。


「これはへらへらじゃなくて普通のわたしです。そして生意気だって自覚はあるんだ⋯⋯それなら少し直してよ⋯⋯」
「それは無理ですね。容易く変えられないからこそ“性格”って言うんですよ、先輩」
「⋯⋯自覚してても悪いとは思ってないんでしょ、奥村くん」


 彼の試合でのプレーを、今日初めて見た。

 普段はこんな性格だけれど、試合になるとまるで違う。投手を気遣い、チームの士気を上げ、貪欲に勝利を目指す。やっていることもプレー内容も、野球が大好きで、それに懸命に打ち込んできた選手のそれだ。それなのに彼からは、「わくわくうきうきが止まらねぇぜ!」みたいなものが溢れない。

 それが個性なのだと言われてしまえば、そうなのかもしれないけれど。

 彼は野球をどう思っていて、どんな思いでここにいるのだろう。不意にそんなことを思った。彼はいったい今まで、どんなふうに野球と生きてきたのだろう、と。


「ねえ⋯⋯奥村くんは、野球が好き?」
「はい?」
「野球が楽しい?」
「──⋯⋯」


 奥村くんの口が結ばれる。伏せられたその目はどこか一点を見つめていて、いつかの過去を想起しているかのようだった。

 数秒の沈黙。
 その沈黙の意味を、わたしは何も知らない。


「そういう苗字先輩は──⋯⋯いえ、やっぱりいいです。聞いたところで答えは分かりきってますから」
「⋯⋯?」
「アナタも、あの人も。似たような顔で野球に関わる⋯⋯楽しくて仕方がないって顔で」

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