23.謡のように



 振り返ってみると、流れた時間というのは酷く早く感じるものだ。

 手に汗握ったドラフトも。東京選抜さながらに興奮したU18──東京選抜での前科(?)があるおかげで観戦が叶った──も。思い出すとついこの間のことのようでもあり、それでいて遥か昔のことのようにも思う。
 
 精一杯過ごした。終わってしまう日々に抗うようにして。それでも、──それでも。


 ──ああ、また、この時が来てしまった。

  
 込み上げそうになるものを、深く吸った息とともに胸の奥に押し込む。見上げた空は淡く青く澄んでいる。去年も感じた空気だ。春の霞の中。麗日なのに、寂しくて切ない。青道に来て、卒業の寂しさというものを知ってしまった。それを感じられる人達と時を過ごすことができた。

 会う約束などしなくとも会うことができて、毎日、毎日、同じものを目指して一心に“今”を懸けてきた。引退してからも校内で偶然会うこともあったし、部活を覗きに来てくれることもあったし、何より会いたい時にはすぐに会いに行ける場所にいた。

 そんな先輩たちも、卒業証書を手にしてついにここを発ってしまう。袂を分かって。もう戻ることはない。

 それに今年は、──一也くんが。

 グラウンドに集まった野球部の卒業生。囲む在校生たちが、それぞれに思いの丈をぶつけている。

 しかしわたしはそこに近付けないでいた。

 何度も覚悟を決めてきた。幾度となく思い描いてきた。この日が来たら、どんなふうに振る舞おうか。理想の別れにできるように。門出を祝えるように。何度も、何度も。それなのに。胸のあたりが引き千切られるように痛い。

 輪に加われず、ぼうっと視線を彷徨わせる。たくさん伝えたいことがあるのに。口を開けば言葉よりも先に涙が出てきてしまいそうで。

 相変わらずの涙腺の脆さに我ながら呆れつつ、どうしたものかと考えていた、そんな時だった。


「なーにしてんだお前は、そんな顔して」
「うわっ、びっくりした⋯⋯一也くん、いつの間に」


 気付かぬうちに目の前に来ていた一也くんに、ぴこ、と指先で額をつつかれる。

 
「今日名前が泣いちまうことなんて全員分かってんだから、抵抗するだけ無駄だぞ?」
「そ⋯⋯それもそっか?」
「そーそー。それより皆とたくさん話したいことあるって言ってただろ、行かなきゃ後悔するぞ」
「⋯⋯うん」


 確かに言われてみれば、今更皆の前で隠す涙もない気がしてくる。嬉し涙も。悔し涙も。晒け出し、時に分かち合ってきたのだ。そう思うと一気に気持ちが軽くなる。緊張していた顔の筋肉が解れる。それらの弛緩に伴ってか、まるで口にするつもりのなかった話題が不意に転がり出た。
  

「ね、ね、一也くん」
「ん?」 
「わたしはね、一也くんのことを考えて目を閉じると、必ず、楽しそうにミット構えて意地悪に笑う一也くんの顔が一番に浮かぶの。初めて一也くんに会った日から変わらない姿だよ」
「褒められ⋯⋯てんだろうな、一応」
「その姿がこれまでのわたしと、そしてこれからのわたしを変わらず支えてくれるんだ。⋯⋯一也くんは? わたしのこと考えたら、何か浮かぶことある?」


 突拍子もない質問にも関わらず、束の間彼は、目を閉じた。ただ瞼を閉ざすという所作が、卒業という日の特別さにあてられでもしたのか酷く美しいものに見える。

 
「⋯⋯俺は、お前の後ろ姿が浮かぶ。どっかの球場の外野で、俺は試合後で疲れて横になってて⋯⋯名前は俺の少し前で、空見てんの。この時初めて、お前俺に言ったんだよ。俺の野球が好きだ、って」
「あ⋯⋯」
「ずっといつの時のことか思い出せなくてもやもやしてたんだけどさ。ほら、夏のあの日⋯⋯名前が熱出してぶっ倒れた日あっただろ。あの時夢に見て、思い出したんだよな。⋯⋯お前その時のこと覚えてる?」
「⋯⋯どう⋯⋯かな」
 

 嘘だった。
 見上げていた空に浮かんでいた雲のかたちまではっきりと覚えている。
 

 ──“わたし一也くんの野球、大好き”


 高い秋の空。薄い雲。からりとした空気に包まれた世界。仰いだ青に吸い込まれるようにして、初めて彼の野球への想いを吐露した。


 ──“一也くんのプレー見てるとね、すっごくどきどきするの。胸が高鳴って、わくわくして、なのに心臓がきゅーって苦しくなる。たったひとつの動作に泣きそうになっちゃう時がある。⋯⋯一也くんの野球は、宝物みたいだね”


 思い返せば何とも恥ずかしい台詞だ。まだ小学生だっただろうか。今よりもずっと拙い語彙で、心を表す言葉を懸命に探した。

 わたしと同じく時を遡り言葉を思い返しているのであろう彼は、懐かしむような眼差しを湛えている。少ししてから、その瞳のまま宙のどこかを見つめた。
  

「あの頃の俺は、お前の言葉も心もちゃんと受け取れてなかったんだと思う。けど今でもこうして覚えてんのは、きっと、お前のあの言葉が俺の中のどっかをずっと支えてくれてたからなんだろうな」
「⋯⋯っ」
「俺も勿体ねぇことしてたよな。今ならこんなにも⋯⋯」


 不意に彼は、臍のあたりで広げた自身の右手に視線を落とし、そのまま口を噤んでしまった。


「⋯⋯? こんなにも?」
「⋯⋯いや、やっぱ何でもない」
「えっ?! ここまで言って?! 嘘でしょ?!」
「嘘じゃないんだなこれが」
「わーん狡い、気になって夜しか寝れないじゃん⋯⋯!」
「寝れるのかよ」
「ふふ」

 
 こうして笑い合っている最中のことだった。それは突然に襲い来た。あ、だめだ、と思った時には遅かった。無性にどうしようもなく込み上げてしまって。自制する間など与えてはもらえず、堰を切った涙がぼろぼろと零れ出す。


「⋯⋯っ、な、なんか、急にきちゃた⋯⋯」
「⋯⋯うん」


 しかしお互い不思議と大して驚きはしなかった。二人で積み重ねてきた何気ない時間こそが涙のトリガーとなることを、何となく予想していたからなのかもしれない。

 こうして制服を着て。他愛もないことで笑って。これからも一緒にいるつもりでも、“ここだけ”の時間は確かに終わってしまうのだ。
 
 だから、下手くそな笑顔を貼り付ける。余りにも下手くそだけれど、笑顔でいたかった。この場所で最後に会うわたしとして記憶に残る姿は、笑顔がよかった。

 震える唇を噛み締め見上げると、どこか切なそうに眉を下げる一也くんと目が合って、もう一度不器用なりに笑んでみせる。


「一也くん。卒業、おめでとう」
「──ああ、ありがとう」


 いつもグラウンドで感じる風が、今日もわたしたちに吹く。刻み込む。ここで共に過ごした日々がこの先、心の何処かに何らかのかたちで残るように。そうすれば、いつか忘れてしまっても。きっと、懐かしさとともに別の何かとして思い起こされるから。 
 
 そしてちいさく足を踏み出し、皆の輪に戻ろうかと思った時だった。


「あーっ! また苗字のこと泣かせてる!」
「げ、沢村⋯⋯つーかまたって何だよ、人聞き悪りぃな」
「またはまたですよ! いつもいつもアンタって人は! つーか今俺の顔見て『ゲッ』って言いましたね?!」
「お前もいつもいつも煩ぇなぁ⋯⋯何の用だよ?」
「カーッ、めでたい卒業だってのに『何の用だよ』?! 最後の最後にそれですか?! 相変わらず人の心がなさ過ぎる!」
「⋯⋯用ないならどっか行ってくんねぇかな」
「ありますよ! 皆で写真撮ろうってんですから! 前キャプテンに声掛けないわけにいかないでしょーが!」


 ぷんすかと声を荒げて騒ぎ立てる沢村くんは、荒げた声の隙間で一瞬だけ目を細めて一也くんを見た。喧しさとは裏腹な、優しい瞳だった。

 それから仕切り直したように一頻り一也くんに文句を言い、その勢いのままわたしにも話を振る。


「ほら苗字も! 涙を拭け! 良い顔で写んねぇと、いつかキャップが何かの番組で『卒業式の写真』とかって今日の写真出した時に泣き顔が全国に流れちまうぞ!」
「あはっ、何の心配してるの」
 
 
 ──楽しいことばかりではなかった。
 
 仲間同士で衝突し、辛酸を嘗め、迷い、泣き、藻掻き、足掻いてきた。何が正解だったのか。選んだ道は間違ってはいなかったのか。自分たちのしている努力は正しい方向を向いているのか。幾度となく己に問うては、あるはずもない正解を託言と矜持の中に探してきた。

 今でもそれはわからないけれど。
 
 皆で笑っているこの瞬間が、答えな気がした。






 

 

 砂塵が舞う。
 空に抜けていく選手の声。球を捉える金属音。風を纏うグラウンドを見つめていると、今でも時折、耳の奥で響く。


「名前」
「一也くん!」

 
 呼び合う二人の声がこのグラウンドに響くことは、二度とはないけれど。

 マウンドから十八・四四メートル。白球を待ち構えるミット。真剣な眼差し。自信に満ちた勝気な笑顔。出逢った時から焦がれ続けたあの姿は今でも。

 陽炎のように。蜃気楼のように。

 わたしの眼裏で永遠に揺らめいている。




 
◆謡炎◇ 

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