23.謡のように


 三年生がいない毎日に、皆慣れてきたように思う。当初はぎこちなかった金丸部長も板に付き始め、二年生には自分たちが部を引っ張るのだという実感が伴い出す。先輩たちの背を追って。あの逞しかった背を追い越して。今度は自らで掴み取るために。

 こうして新体制が軌道に乗り始めた、そんな折だった。


「あの、奥村くん⋯⋯? わたしの顔、何かついてる?」
 

 無言でじいっと見つめられること十秒ほど。ついに堪え切れず、問うていた。朝練が終わり片付けをしている時だった。


「いえ、何も」
「あ、そう⋯⋯」

 
 遠回しに「何の御用?」と訊ねたつもりだったのだけれど──というかそういう意味の常套句のはずだけれど──、真顔で真面目に返答されて狐につままれたような顔をしてしまった。
 

「えっと⋯⋯じゃあなに?」
「別に⋯⋯あの人が居なくなって、どうなるのかと心配してましたけど、案外普通だなと思っただけです」
「⋯⋯そう? それならよかった」


 普通に見えているのであれば、──よかった。

 心の中でそう返事をしなおし、一瞬だけそっと睫毛を伏せる。きっとわたしだけだ。わたしだけ。無意識にグラウンドに彼の姿を探している。
 

「ていうか奥村くん、そんな心配してくれたりするんだね」
「⋯⋯どういう意味ですか」
「だって部内恋愛反対でしょ」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯?」
 

 途端に口を噤んだ奥村くんを、今度はわたしがじいっと見つめる。表情が読み難いので確信は持てないのだけれど、意外なことに、どうやら今のわたしの言葉に“完全に同意”というわけではないようである。しかしそこに潜む意図まではとても読み取ることができず、彼からの言葉を待ってみる。

 しかし一向に話し出す素振りは見られない。それでもこの場から離れていかないところを見ると、何かしらを話したいことだけは確かなのだろう。けれどそれを無言で待っているのも気不味くて、口を開く。


「⋯⋯実はね、奥村くんだけじゃないんだ、心配してくれるの。この間なんて沢村くんにまで言われたんだよ、『キャップいなくなって平気か苗字?!』って。⋯⋯わたし、そんなにだったかなぁ。もう一也くんを追ってきただけの人間じゃなくて⋯⋯青道のマネージャーのつもりなんだけどな」


 確かに入学理由こそ一也くんだった。けれど今のわたしはもう、一也くんを追い掛けているだけではない。青道野球部の一員として。皆と一緒に、“何か”を懸命に追いかけているつもりだ。

 一也くんの引退が酷く堪えるものであることは確かだ。彼の姿がないこの場所にぽっかりと空いた穴は、引退から時間が経った今でも埋まらない。

 それでもわたしは、このチームの一員だ。一也くんが引き入れてくれた。野球と関わる場所をくれた。ここはもうわたしにとって、かけがえのない居場所だ。一也くんがいなくなってしまってからもそれは変わらない。──変わらなかった。
 
 だからこれまでの、わたしなりに懸命に打ち込んできたその振る舞いが「一也くんありきのもの」だと思われているのならば、それはそれで堪えるものがある。

 わたしの言葉に相槌も打たずただ静かに聞いていた奥村くんを、不安げに上目で見る。奥村くんは暫くしてから、噤んでいた口を開いた。

 
「⋯⋯そんなにでしたよ」
「え⋯⋯?」
「さっきの質問。そんなにでした。俺は苗字先輩のあの目を⋯⋯あの人がいなくなってから、一度も見てません」
「あの目⋯⋯? って?」
「あれは⋯⋯あの人自身に向けられるものなんですか? それともあの人の高校時代だけの特別なもので、この先のプロでの姿には向けられないものなんですか⋯⋯なんて、今まさに高校生を生きている苗字先輩に聞いても仕方ないんでしょうけど」
「⋯⋯?」


 珍しく饒舌な彼は一体、何のことを言っているのだろう。まるで思い当たることがないし、本当に何のことを言っているのか分からない。これでもかと首を傾げてみせると、彼は呆れた眼差しでわたしを見た。

 
「⋯⋯そんなとぼけた顔して、まさか無自覚ですか」
「えっ、とぼ⋯⋯はい、たぶん無自覚です、何のことかさっぱりだけど⋯⋯」
「⋯⋯じゃあ俺がその答えを知る日は来ないですね」
「⋯⋯奥村くんは、それを知りたいの?」


 さぁ、と風が吹く。穏やかな風に吹かれた髪を押さえ、奥村くんを見つめる。彼はいっとき面食らったような表情を見せ、それからゆっくりと口を開いた。

 
「⋯⋯⋯⋯そうですね、知りたい⋯⋯いや、知りたかったです」
 

 彼はぶっきらぼうな視線をグラウンドへと向ける。朝の太陽を受けたその横顔は少しだけ眩しそうだ。その視線の先に何となく一也くんの姿がある気がして、わたしは一度、瞬く。

 もしかすると、──奥村くんも。

 「知りたかった」と言い直したのは、今の話をしたかった相手が、本当は一也くんだったからなのではないだろうか。 


「⋯⋯もしかして奥村くんも寂しいの? 一也くんがいなくて」
「はぁ?????」


 反射的に身を竦めていた。物凄い剣幕だった。これまで彼には色々と言われてきたし、その分この表情と物言いには真正面から曝されてきたけれど、今回は群を抜いて凄い。出会って間もない時であればトラウマになっていたかもしれない。

 でも今は、知っている。奥村くんもまた、御幸一也という捕手に惹かれたひとりなのだと。

 
「何笑ってんですか⋯⋯」
「ふふ、別に」
「次こんな気色悪いこと言ったら先輩といえど容赦しませんよ」
「ふふ、もう容赦してないじゃん」
 

 笑いながら、ふと思う。同じチーム内、自分と同じポジションに一也くんのような才に溢れた選手がいるというのは、どういう気持ちなのだろう。羨望。畏敬。嫉妬。目標。好敵。数多渦巻くのであろう感情の中、奥村くんは一也くんに対して、一体何を思っているのだろう。

 聞いたところで、答えてはもらえないのだろうけれど。


「ね、奥村くん。今日はわたしが相手なのによく喋るね」
「⋯⋯先輩」
「ん?」
「今までつっかかってきた俺が言うのもなんですけど、俺に対しての自己肯定感低いの──“わたしが相手なのに”、みたいなの、止めてください。鬱陶しいので」
「うっと⋯⋯あのね奥村くんはね、いつも本当に一言が多いんだよねぇ」


 最後の一言がなければ抱く印象は随分と違ったものになるはずの台詞なのに、たった一言のせいで台無しなのだ。勿体ない。

 じとっと見遣ると、流石に気不味そうに眉を寄せた奥村くんが、ぼそりと呟く。
 

「⋯⋯すみません、つい⋯⋯自覚はあります、一応」
「あったんだ⋯⋯自覚⋯⋯」


 もう一度、さぁ、と吹く。三年生の姿が面影となったグラウンドに、わたしと奥村くんの視線が束の間釘付けになる。たくさんのものを置き去りにしたまま、新しい風が吹き抜ける。
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