「じゃあさ、名前、俺と暮らせば?」
「え?」
会うのは久し振りだった。
プロ野球選手になって約一年が経とうとしている兄、成宮鳴は、プロになって初めて帰省した実家で名前の大学合格を聞いた途端こう提案してきたのだ。
「俺とって⋯⋯お兄ちゃん寮でしょ?」
「ワケあって春に出んの」
「⋯⋯? 普通はこんなに早く出れないんじゃなかったっけ?」
「普通はね。ほら俺って何事も規格外だからさー。まぁ細かいことはいーんだよ」
「えぇ⋯⋯なにそれ⋯⋯」
ソファにふんぞり返るようにして座っている鳴は、背凭れに頭を乗せ天井を見ながらしれっと言葉を続ける。
「まぁ家からでも通える大学だけどさ、何だかんだ片道一時間くらいかかるんじゃない? かと言って一人暮らしするかってーとそこまでの距離ではない気もするしね、金もかかるし。女の子一人っつーのも心配だし。それなら丁度俺の住む予定のマンション近いしさ。一日二時間余裕が生まれるってデカくない?」
「め、めっちゃそれっぽいこと言う⋯⋯どれが本音だ⋯⋯?!」
「いやどれも本音だけど」
名前と鳴の会話を、ダイニングのテーブルで紅茶を飲みながら母が聞いている。その表情は愉快げで、母に反対の意はないようである。
名前はいっとき考える。
鳴と暮らすこと自体に拒否感はない。鳴とは仲も良いし、往復約二時間の通学時間が短縮されるというのも非常に魅力的だ。
しかし問題はそこではない。
名前の兄は、鳴は、プロ野球選手なのだ。しかも予想通りというか流石と言うべきか、球団事情も然ることながらその実力で一年目から“怪物ルーキー”として名を馳せている。家族としては鼻高々なことであり、名誉であり、誇りであるのだが、しかしそれが大問題なのである。普通の兄弟と暮らすのとは良くも悪くも事情が違い過ぎる。
故に名前は、きっぱりと口にした。
「わたし嫌だよ」
「は」
こんなにはっきりと断られるとは思っていなかったのだろう。鳴は天井から視線を剥がしてがばりと身を起こし、驚いた表情で名前を見る。
「わたし、嫌だよ」
「改めてはっきり言ったりしなくても聞こえてるよ! 何でさ?!」
「すごく有り難い申し出ではあるんだけど⋯⋯だってお兄ちゃん、好きな人できた時どうするの? わたしがお家にいたら困るでしょ。わたしだって困るもん、お兄ちゃんの彼女が来るたび気遣って外出したりするの」
「は? そんなん言ったら実家暮らしのやつ恋愛できないじゃん。つーか俺どんな恋愛すると思われてんの」
「それは分かんないけど⋯⋯」
気不味そうに手元に視線を落とす名前を見て、鳴は再度、背凭れに手を掛け背を預ける。
「⋯⋯本当の理由は?」
「え?」
「本当の理由。あるんだろ」
名前は二度、ぱちぱちと瞬いた。それから、やっぱりわかっちゃうかぁと苦笑して眉を下げる。
「⋯⋯一也くんに会いたいんだ」
この一年間は、想像以上に会うことができなかった。
多忙さに加え、大っぴらに腕を組んで歩くことが忍ばれるようになり、目に見えて激減した御幸と会う機会。いつかのあの頃のような、電話で声だけを聞く日々。覚悟はしていた。しかし、寂しい。覚悟があろうとなかろうと、その寂しさに違いなどはない。
だからこそ会える機会が生じた時には何の障壁──鳴を障壁などと言うと怒られてしまうが──もなく会える状態でいたいのだ。
「お兄ちゃん、一也くんが来たらきっと怒るでしょ。まぁ二人とも忙しいから鉢合わせることはないのかもしれないけど⋯⋯あとマスコミが⋯⋯」
御幸と鳴は別の球団に入団している。ただどちらの本拠地も首都圏にあるため、往来は十分可能な範囲だ。ただ、鳴が両手を上げて御幸を迎え入れてくれるとは思えない。
そして何より、名前にはマスコミが“恐怖”の対象だった。一体彼らがどんな行動原理でどのようにして活動しているのか、名前には理解が及ばない。野球選手の家族だから。野球選手の恋人だから。
だから、──だから?
睫毛を伏せ押し黙る名前に、鳴が変わらぬ調子で声を掛ける。
「⋯⋯こんなこと言うのは超超チョー癪なんだけどさ、」
「ふふ、すごい癪なんだ」
「⋯⋯一也に関しては、俺と住んでた方が都合いーんじゃない? 一也と俺は他球団だけどガキの頃からの付き合いなんだから、自宅に出入りがあったってなんら不思議じゃないしさ。もしウッサイマスコミに嗅ぎつけられても『兄の昔からの友人でーす! だから仲良しなんでーす!』で通るだろ。それでもしつこいんだったら俺が出るとこに出るし」
「え⋯⋯」
凝視する先の鳴は、むくれたように唇を結び仏頂面を作っていた。御幸と付き合うようになって一年半程だろうか。一生変わることはないのかもしれないと思っていた鳴の心境にも、少しは変化があるのかもしれない。
「お兄ちゃんからそう言ってもらえると嬉しい」
「言っとくけど一也のことはオマケだから」
「ふふ」
「オマケだって言ってんじゃん!」
「うん、ふふ、ありがとう」
「礼を言うな! その笑顔やめろ!」
鳴が御幸を引き合いに出してまでこの案を推してくるということは、鳴にとっては余程の欲求なのかもしれない。例外的な早さで寮を出ることといい、プロの世界に身を置くようになった鳴には鳴で、色々とあるのだろう。しかし仮にそうだとしても何か別の企みでもあるのかと疑りたくなってしまう熱量な気もするが、生まれてこのかた様々なシスコンムーブを浴び続けてきたおかげか、これが平常な気もする。最早普通が分からない。分からないがしかし、それで困ることもない。
名前は母に話を振る。
「ちなみにお母さんたちは? どう思う?」
「どれでも。名前のしたい暮らし方でいいよ」
「そうなの?」
「うん。通学とか一人暮らしに関しては鳴と同意見だしね。鳴のマンションならセキュリティも万全だし。だから、名前の気持ち次第」
ここで母は一度言葉を切り、にこにこと笑みを浮かべた。
「でもお母さん、名前が選ぶものもう知ってるわよ」
「えー?」
「名前は、『鳴と暮らす』を選ぶ」
「⋯⋯どうして?」
問うてみせた名前の視界の隅で、鳴の唇がにんまりと、これでもかとにんまりと持ち上がっていく。
今度は名前が唇を結ぶ番だった。
母の言う通りではあるのだ。名前は鳴と暮らすことを選ぶつもりだった。しかし何故だろう。鳴にそんな顔をさせていることが、少し、悔しい。
そんな名前にはお構いなしに、母は名前の問いかけに答える。
「だって名前、実はお兄ちゃん子じゃない。加えて野球と御幸くんが大好きだから。鳴と暮らす生活は、その全部に一番近い気がするもの」
「ちょ、お母さんっ、その言い方やめて、お兄ちゃんが調子に乗るから! ⋯⋯あっもう遅かった! ほら見てあの顔!」
母の台詞の冒頭部分しか聞こえていなさそうな鳴を、名前は真っ赤になった顔で指差す。
当の鳴は自慢気に、誇らしげに、これまでで最も鼻を高くして満足そうにふんぞり返っていた。
こうしてトントン拍子に話は進み、名前の新生活の段取りがついていく。嫌でも胸が高鳴った。部活をしていた期間の平日のみという条件ではあったものの、高校生の頃に実家を離れるという経験をしていたこともあり、寂しさよりも期待が勝る。
余りにも濃い時間だった三年間。それを携えて進む次の世界。そこには、どんな景色が待っているのだろうか。
「まぁ俺はそんなにしょっちゅう家にいるわけじゃないし、基本名前が好きに生活してればいいよ」
「ありがとう。わたし、野球選手を支える食生活の勉強とお料理の練習するからね!」
「俺で練習して一也に披露する気じゃん」
「あはっ」
春が来る。
まだどこか卒業の余韻が残っていて、それでいて新天地への期待と不安とで落ち着かなくて、居心地が良いような悪いような。
そんな、春が来る。