「何だって?」
電話のあっち側から出た声は珍しくひっくり返っていた。頓狂な声に思わず笑ってから、名前はもう一度告げる。
「春からお兄ちゃんと暮らすことになったの。なんか成り行きで」
「聞き間違いじゃねぇのな⋯⋯一応聞くけど、お兄ちゃんって鳴のことだよな」
「あはは、一也くん何言ってるの?」
月がまあるく光る春夜だった。月暈が浮かび上がる薄い雲間に、電話越しの御幸の声が反響する錯覚を覚える。
夜の空と、御幸の声。
初めのうちはこの組み合わせがしっくりこなかった。名前が高校生になる前は、いつも決まって早朝に電話をかけていたからだ。御幸の朝練が始まる前の僅かな時間を狙って、朝の景色の中で御幸の声を聞いていた。希望と憧憬に満ちた日々に似つかわしい、まばゆい記憶だ。
故に妙な違和感を覚えたこの組み合わせだったが、一年も経てば馴染むというものである。あの頃よりも大人びた景色と声が、変わらず名前を支えてくれている。
今は、この電話だけなのだ。
あの日々の代わりに得た御幸との繋がりは、片手に収まるこの小さな機械。その向こうに御幸の面影を探して、気付けばいつも空を見る。
「お兄ちゃんね、『一也と会いたいなら俺と生活してたほうが都合いいだろ』って自分から言ってくれたんだよ」
「へぇ、あいつが」
「ねぇ、どうしたんだろうねぇ」
不思議そうな名前の声に、御幸は答えなかった。その反応に、もしかしたら御幸は理由を知っているのかもしれないと思ったりもしたが、鳴も御幸も言わないのであれば聞く必要はない。
「あとね、お兄ちゃん、共用するしないに関わらず家具とか好きなの何でも買ってくれるんだって。なーんでもだって。だから今色々調べたりお店行ったり、わたしも楽しく忙しくしてるの」
「ああ⋯⋯なんか目に浮かぶわ⋯⋯ほら、なんつーんだっけそういうの、何でも買ってくれる⋯⋯パパ活だっけ?」
「ぶっ」
「違ったっけか。でもイメージはこれなんだよな」
「ふっ、ふふ」
鳴のシスコンぶりも御幸の中ではとうとうその域に達してしまったらしい。それを聞いた名前は腹を抱えて笑っていたが、御幸はお構いなしに普段通りに会話を続けていく。
「そういや大学の準備も進んでんの?」
「うん、ぼちぼちかな」
まだ笑いの余韻を残して答えた名前が春から通う大学は、夏まで一心不乱に部活に打ち込んできた名前が現役で合格するのは到底無謀だと、誰しもが思うような大学だった。周囲には端から無理だと決めつける者もいたことだろう。
だが、名前は挑むことに怯まなかった。
部活を引退してからの名前の勉強っぷりは、「その様まさしく修羅の如く、マジパネェっす周りになんか出てます怖くて近付けやしません!」と御幸は沢村──たまに現状報告のようなメールを送り付けてくる──から聞いていた。
一度理由を訊ねたことがある。
その時名前は迷わず答えた。将来の選択肢を広げたい、と。まだ明確な将来のビジョンを描けないから、やりたいことが見つかった時に不勉強を悔いることだけはしたくない、と。この答えに御幸が相槌を打つ前に、「それに、」と名前は続けた。
「⋯⋯何かを考えてないと、何かで頭を埋めておかないと、すぐに寂しくなっちゃうから。一也くんもいなくて、わたしも部活引退しちゃって、喪失感にへこたれちゃいそうだから。何かにのめり込んでないと、怖くて」
そう話していた。
その想いだけで沢村を怯ませるほど懸命に勉学に臨めるものなのか。聞いた当初はそう思ったし、合格を決めた今でも同じことを思う。しかし周囲から見れば“その想いだけ”が、本人にとっては“それ程の想い”なのだろう。
勉強でここまで必死になったことのない御幸には、名前が味わった苦しさも、乗り越えてきた困難も分かることはできない。けれどこれは当然の結果だったのかもな、とは思うのだ。
きっと名前は一心不乱に机に齧りつき、野球に向けていた熱量全てを勉強に向けてきたのだろう。だとしたらそれは物凄い熱量だ。その大きさだけは、御幸も知っている。三年の夏まで部活に心血を注いできた学生は時として爆発的な追い上げを見せることがあると聞くが、だとするとそれは間違いなく名前のことだ。
「お前の行くとこ、一般入試はレベル高ぇけど、いくつかスポーツ推薦もあるとこなんだよな」
「うん。ここ最近青道から行った人はいないみたいだけど、もしかしたら他校の知ってる選手いたりするかも」
「あちこち偵察行ってたから知ってる選手の幅広いしな。大学でもやるんだろ? 野球部のマネ」
「んー、考え中かなぁ」
「え? そうなの?」
意外だな、と言いたげな声色で御幸は応じた。名前も苦笑いを零してから暫く言い淀み、「わたしも上手く言えないんだけど」と前置きして話し始める。
「なんて言うのかな、やり切ったっていう気持ちがすごく強いんだ。自分がプレーしてきたわけじゃないのに、なんでかな、『高校でやり切った』って思っちゃうの。⋯⋯どうしてかなぁ」
「そりゃあ、本気だったからだろ」
しょぼしょぼと言葉を紡いでいた名前に、御幸のきっぱりとした言葉がかかる。真っ直ぐで、嘘偽りのない。心の底からそう思っているのだとわかる声音だ。
「本当に、本気だったからだよ。名前が三年間、野球は勿論だけどさ、青道っつーチームにひたむきだったからだよ」
「そう⋯⋯なのかな。一也くんにそう言ってもらえると嬉しいな」
「何言ってんだよ、俺だけじゃなくて部員誰だってそう思ってるぜ。何てったってお前、あの野球バカ達の頂点争いに堂々とランクインしてたからな」
「あはっ、なにそれ」
御幸に、部員たちに、そう思ってもらえていたのであればこんなに光栄なことはない。面映ゆさに擽られ、胸のあたりがむずむずと落ち着かない。
「うーん、でもなぁ⋯⋯受験勉強で我慢してたぶん、一也くんとお兄ちゃんの追っかけもガチでやりたいし⋯⋯」
「いやお前、受験生中もちゃんとガチだったぜ」
「いえいえ、こんなものでは」
「ははっ」
「でも、そっか、どうなんだろう⋯⋯また、恋しくなっちゃうのかな⋯⋯」
あの緊張感。あの一体感。息苦しさも打ち震えるような喜びも、きっと外側では得られない。あの場所でしか得られないものだ。
それがまた恋しくなる日が来るのだろうか。そこに自分がいないことを悔いる日が、来るのだろうか。
「⋯⋯とりあえず入学したら見学だけでもしてみようかなぁ。青道に進んだ時と違って大学は野球で選ばなかったから、野球部がどんな感じなのかわかんないんだよね」
「⋯⋯やっぱ、よっぽどだったってことなんだよなぁ」
「?」
名前が野球のことをまったく加味せず進学先を選ぶことになるなど、誰も思わなかっただろう。
だからやはり、“その想いだけ”ではなく、“それ程の想い”なのだ。名前はこうして着実に、一年半前のあの時に話していた「例え一也くんが隣にいなくても、生きる理由なり目標なりにできるようなこと」を見つけに向かっているのだ。
「んじゃ、引っ越しの日決まったら教えろよ。時間空いたら『パパ』の顔拝みがてら手伝いに行くぜ」
「あははっ、ありがとう。またね」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ、ゆっくり休んでね」
御幸が電話を切るのを待って、それからスマホを下ろす。このままだと御幸はいつしか、めちゃくちゃ悪い顔をしながら鳴のことをパパ呼びしだすのではないかと思えてしまって、名前はひとり笑みを零した。