たわむ糸


「あ、鳴? おれおれ」


 二秒ほど間が空いただろうか。「いつの時代の詐欺だよ」と心底嫌そうな声が答えて、その愛想の欠片もない声色に不思議と安堵した。安堵してしまった。自分で思っているよりも、心は切羽詰まっていたのかもしれない。

 名前に連絡しなくてよかったな。

 そう思う。この精神状態で名前の声を聞いてしまっていたら、先刻女を前にして必死に堪えた破壊衝動にも似た感情が容易く蘇っていただろう。そして解決策も与えられないまま、ただ名前に無駄な不安を植え付けてしまっていた。

 鳴にして、よかった。

 
「なぁ鳴、最近変なことねぇ?」 
「なに、変なことって。遠回しな聞き方しないでくれる」


 こんな時は鳴の歯に衣着せぬ物言いに助けられるのだと、初めて知る。直球で問われたことがかえって有り難い。

 
「いやー、ちょっとヤバいファンがいてさ」
「まさか名前に手出されそうとか言うんじゃないよね」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」


 こと名前に関しての鳴の察しの良さには舌を巻く。肯定と受け取って貰うには十分な重さを伴った沈黙を挟むと、鳴も同じだけの沈黙を返してきた。

 どんな怒号が飛んでくるか。

 耳朶と携帯の距離を取り怒声罵声に備えた御幸だったがしかし、暫くしてから鳴の発した声は、決して荒いではいないのに怒気を溢れんばかりに含んだ酷く冷えたものだった。怒りを前面に出したものよりもずっと、本気度が伺えてしまう。
  

「──信じらんないんだけど。一也お前何してんの」
「悪りぃ」
「謝って済む話じゃないだろ。さっさと現状洗い浚い話してよね」


 こうして今回の件を知った鳴は、長い長い溜め息を吐いてから口を開いた。


「一也ってさぁ、こういうところほんと不器用だよね。ファンとの交流が性に合わないのは理解はしてやるけど、だからって極端すぎんの」
「俺としては逆に、この態度を貫くことで名前を守ってたつもりだったんだけどな」


 ずっと傍にいられるわけじゃないから。名前に不安材料を与えないように。些細な誤解も生まないように。いつだって御幸は名前しか見ていないのだと、信じてもらえるように。

 性分だけの理由ではなく。

 守っていた、つもりだった。
  

「それに愛想振り撒いたところで、高校の顔も名前も知らねぇ同級生から昔の情報が漏れんのは仕方ねぇだろ。口止めの仕様がねぇし、そもそもそいつらの民度が低いっつー問題なわけで」
「だからこそ、ファンに対する一也の態度次第だったんじゃないの。その初動がミスだって言ってんの。それさえ上手くやれれば、名前に矛先が向く確率は下げられただろ」
「んなこと言ったら異性全員を端から警戒して、全員ににこにこしてなきゃいけねぇじゃん」


 そんな自分は想像できないし。
 そんな姿を名前に見せるのも嫌だ。

 きっと──というか絶対──名前は話せば受け入れてくれる。驕りかもしれないが、外面を良くした御幸のこともこれまでと変わらずに好いてくれるだろう。
 
 しかしそこには、少なからず圧し殺した心があるはずなのだ。だって逆の立場だったら、御幸は必ず嫉妬してしまう。外部の異性に向ける笑顔が仮初めのものだと知っていたとしても、心の何処かが軋んでしまう。そしてその軋轢は、なかなか会えぬ御幸たちの間に確実に澱となって積もっていくのだ。

 しかも、ファンサを良くしたところで、常軌を逸したファンというのはいくらでも生じ得る。御幸がどんな態度を取ったところで、それを気に入らない人間というのは必ず存在する。万人に好かれるなど不可能だ。今回のようなことはきっと、如何様にも起こるのだ。

 この御幸の葛藤は、鳴も分かっているのだと思う。それでもその上で、こう言うのだ。
  
 
「んなのにこにこしてりゃいーじゃん。少なくとも良く思わない人間は減るだろうし、その方が名前に実害が及ぶリスクも減ると思うけど」


 名前の心を守るのか。
 名前を外敵から守るのか。

 鳴は後者を選べと言う。御幸もどちらかを選ばなければならないのだろうか。どちらもを、選びたいのに。

 思わず深い吐息が落ちてしまう。

 ただ野球により深くのめり込みたくて、より高みに行きたくて。ただ、名前とこのまま一緒に歩んでいたくて。それだけなのに、どうしてこんなにもしがらみが多いのだ。

 野球と名前と。

 それさえ共に在れば、良いだけなのに。

 考え込んで黙りこくる御幸を、鳴は暫く待ってくれていたように思う。どれくらい無言の時間が流れたのか、鳴は溜め息混じりに告げた。
 

「⋯⋯ま、俺もあちこち張っとくわ。名前にも詳細は伏せるけど気を付けるように言っとく。だから一也は考えて、そしてちゃんとして。いい? “ち ゃ ん と”、すんだよ。つーか、しろ」
「⋯⋯ああ」


 鳴の言う「ちゃんと」。御幸には、半端をするな、という言葉に聞こえた。どの道を選んだとしても、その選択が間違いでないのだと自分で証明しろ。何を選んでも名前を守れ、と。そしてそれが出来ないのなら、この先鳴が御幸を認めることは金輪際ないのだと、そう感じる言い方だった。

 通話の終了した画面を、御幸は暫くじっと見つめていた。

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