たわむ糸



 放課後、部室に入った直後のことだった。一番乗りだったらしい同期の部員が話しかけてきたのは。

 
「なー、真田」
「あん?」 
「苗字ってさ、男癖悪ぃの?」
「は?」


 突然の話題に、真田の口から素っ頓狂な声が出た。名前の男癖が悪いなんて、何をどうしたらそんな話になるのか。真田は怪訝な顔で続きを待つ。
 

「いやこの間さー、友達に誘われて合コン行ったんだよね。その時会った子に野球ファンがいてさ、俺がこの大学の野球部だって言ったら、苗字の噂教えられて⋯⋯なんか青道出身の知り合いがいるとかで」
「ふーん、噂ねぇ」
「そう。成宮鳴の妹は兄のネームバリュー使って男遊びするらしいから気を付けろって。流れでこの間の飲み会に成宮と御幸が来た話もしたら、兄に可愛がってもらうために兄に対してまで猫被ってるとか⋯⋯プロになるような選手をみすみす逃すはずがないから、御幸のことも食ってるかもとか⋯⋯まぁいろいろ」
「⋯⋯はあ?」

 
 よくもまあそんなデタラメが噂になったものだ。しかもその噂に乗じて、好き勝手な憶測までがばら撒かれている。あまりにも現実とかけ離れている。名前のことを知る人間ならば、この噂が根も葉もないものだと自信を持って言える。というか笑ってしまうレベルの法螺話だ。
 

「んなのデマに決まってるだろ。ったく、入学から日が浅いからって、一緒に野球やってりゃアイツがただ野球が好きなんだって分かんだろ」
「いやそうなんだけど。ほら、女は怖ぇからさー、本性隠してんのかなとか思っちゃって。そ⋯⋯そんな怒んなって」
 

 思っているよりも厳しい声音になってしまっていた。恐らく眼光も鋭くなっていたし、眉間の皺も相当深かったろう。真田のその剣幕に、取り繕うように言葉が発せられている。

 その時、真田の直後に部室に来ていた三年生のマネージャー二人が会話に入ってきた。
 

「あ、私達もね、そんな感じの話聞いたよー。大学内でも少しずつ噂になってるみたい。私は野球部と全然関係ない子から聞いたから」
「やっぱり身内にあれだけ優秀な選手がいたら、肖りたくはなるよねぇ」
「ねー。ていうか正直、そのポジションちょっと羨ましいもん。遊びたくなる気持ちも分かっちゃうなぁ」


 真田の表情がより一層険しくなる。 
 この目の前の三人とも、日頃決して“悪い人間”ではない。しかし目先にホットでネガティブで盛り上がりそうな話題がぶら下がると、飛び付き、乗っかってしまいたくなるのが人間の悲しき性なのか。

 苛ついてしまった。
 
 名前の身近な人間が、一緒に野球をしている人間が、名前のことをそんなふうに言うなんて。
 
 野球と真摯に向き合う名前を見ていれば、嘘だと一目瞭然なのに。

 
「ちょっと先輩たちまで何言ってんスか、アイツがそんなことするワケ──」
 

 思わず暴言に近い言葉を口走ってしまいそうで、深呼吸を挟みながら感情の舵を取るに努めていた、そんな折だった。

 ガタン、と。
 
 真田たちの意識の完全な外側で、物が倒れるような音。同時に嫌な予感がその場を包み、四人揃って慌てて音の出所を見遣る。

 部室の最奥。普段は使わない物品が収納されている小さな物置部屋からだった。サッと立ち上がり中を覗き込む。
 
 足元に横倒しになった籠と、散らばった予備の硬球。それを前に「やっちゃった」と焦り困った表情で所在なさげにしゃがみ込んでいる姿。
 
 
「──名前」
「さっ、真田さん⋯⋯」
「⋯⋯何してんだよこんなとこで」
「その、今日わたし講義早く終わって⋯⋯部活まで時間あったし物品の整理でもしようと思って来たんです。そしたらこのボールたち見つけて、汚れてたから磨こうかななんて⋯⋯」


 真田の口から名前の名が出た途端、真田を除く三人が「いや、その」「これは」「えっと」と慌てふためき、言葉を探し出す。自分の発言を本人に聞かれてそんな反応をするくらいなら、初めから口にしなければいいのに。滑稽ではないか。そう思うが、得てして渦中は悦として話してしまうもので、のちに“後悔”というかたちで降りかかるものだ。
 
 そんな彼らの様子を見た名前は、何故か申し訳なさそうに目線を伏せた。
 
 
「⋯⋯ごめんなさい、立ち聞きするつもりはなかったんですけど、顔出そうと思ったらすぐに話が始まっちゃって⋯⋯わたしのことだったし出るに出られなくて。えっと、その⋯⋯なんとなくですけど、最近周囲の視線が気になる気はしてたんです。だから理由がわかってよかったです、居心地悪かったから。すっきりしました!」


 話しながら、名前は転がしてしまったボールを拾い集めていた。そのせいで顔が伏せっていて、表情が上手く見えない。


「⋯⋯苗字、悪かった」 
「あ、あのね、もちろん私達も本気で信じたわけじゃないんだよ! つい噂に便乗しちゃって、その、本当に⋯⋯」
「そうなの、本当に思ってたわけじゃなくて⋯⋯! ごめん、ごめんね」


 謝罪を口にする彼らに、顔を上げた名前がわたわたと答える。

 
「いっ、いえ、わたしも逆の立場だったら絶対気になってたし同じようなこと言ってたと思います! もー、有名人の家族って、はは、大変大変! なので何も気にしないで下さい! あっ、そうだ、わたしドリンク作りに行こうと思ってたんでした、行ってきます!」


 スイッチでも入った如く転がるように駆け出してしまった名前の背中に、「まっ、待って名前ちゃん!」と焦った声がかかる。しかし名前の足は止まらなかった。


「⋯⋯どうしよう、絶対傷付けちゃった、私行ってくる」
「私も」


 すぐに追いかけようとしたマネージャーを、真田が手を挙げて制止する。

 
「先輩、俺が行きます」
「で⋯⋯でもちゃんと謝って、それで──」
「うん、でもそれは少し落ち着いてからにしてやって下さい。アイツも今、混乱してるだろうから」

 
 見失う前に追いかけようと早々に腰を上げた真田の脇で、沈んだ声が独り言のようにぽつぽつと溢した。
 
 
「⋯⋯名前ちゃんて、ほんとに良い子だから⋯⋯もしかしたら致命的な欠落があるのかもって思ったら、何だか安心して飛びついちゃって⋯⋯ほんとに恥ずかしい、情けない⋯⋯」


 この独白に、真田は答える立場にない。助言も寄り添いも嘲罵も。だから「──俺、行ってきます」と、それだけを残して名前の駆けた道を辿り始めた。

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