猶予うものの泳ぐ夜



 橙色の灯りが部屋の一角を照らす。その影が濃く落ちる壁の上辺、エアコンが規則的な機械音を出している。とっぷりと更けた熱帯夜の中、久しぶりの声を聞く。
 
 
「お帰り」
「ただいまー、一也くんもお疲れ様」
「サンキュ」


 電話から流れてくる声を聞きながら、ふと思う。今日も夜だな、と。

 中学生の頃は早朝に電話をしていたし、高校生の頃は朝早くから朝練があった。日の出とともに御幸の声を聞く機会がめっきり減った。夜は夜で好きだが、朝のあの特有の、一日の始まりに似合う眩しいエネルギーの中で御幸の声を聞くのも、すごく好きだった。

 
「夕方ね、帰ってきてからちょっと寝ちゃって、なんか首痛くした⋯⋯」
「さてはベッドで寝なかっただろ」
「そうなのソファに座ったままで! やっちゃったー!」
「はは、床じゃないだけ成長成長」
「あはは、ポジティブ」


 最終日午前中に合宿を終え、大学に戻り物品等の片付けをし、ようやく自宅に戻った頃には夕方になっていた。ああ、疲れたな。お風呂入りたいな。ご飯どうしようかな。そう思いながら取り敢えず腰を下ろしたソファ。気付けば座ったまま寝てしまっていた。寝違えた。

 鈍く痛む首筋を擦りながら、ちいさく溜め息を落とす。

 
「久々に一也くんの声聞けたな⋯⋯はぁ落ち着く⋯⋯痛みもどっか行く⋯⋯」


 あ、笑ったかな。
 声には出していなかったが、何となく、電話の向こうで御幸が笑みを作ったような気がする。その雰囲気を感じ取るだけで、心が軽くなる。


「そーいや沢村から、『無実ですがお望みとあらば切腹はする覚悟です!』って連絡来てたんだけど何これ?」
「あはは、それだけ?」
「うん。だから俺も取り敢えず『切腹しとけ』って言っといたけど」
「あははっ」


 渦中の名前は考えもしなかった。
 大袈裟ではなく、本気で“生か死か”レベルの恐怖を感じていた。沢村は唯一の味方である人間だった。男とか女とか。そんなことは考えもしなかったのだ。

 翌朝に聞いた話だ。
 満員電車で痴漢冤罪を免れるが如く、沢村が気を遣っていたのだと。

 失礼ながら見直してしまった。高校生の頃はあまりそういった配慮をするタイプではなかったし、あんな状況でも異性を慮ることができるなんて。沢村の恐怖心が名前ほどのものではなかったか、若しくは御幸への気持ちが恐れを上回ったか。
 

「わたしが悪いんだ。この電話で話そうと思ってたのに、沢村くんに先越されちゃった。あのね、最終日の前の夜に──」

 
 斯々然々。 
 ドッキリ肝試しの顛末を話す。改めて振り返ってみると、御幸にも沢村にも申し訳ないことをしてしまった。
 
 
「⋯⋯ってことがあって、男の人押し倒しちゃって⋯⋯ごめんなさい。もし一也くんが春乃ちゃんのドジで押し倒されちゃったら⋯⋯って考えたら、わたし、仕方ないと思いつつもすごく嫉妬するもん。だから、本当にごめんね」


 頭を下げていた。御幸に見えるはずもないのに、手のひらに汗が浮かぶ手で携帯を握りしめながら。緊張している。返答を待つ僅かな時間に、普段より多くの心拍が刻まれている。だってわたしだったら。嫌な言葉を口にしてしまうと思うから。

 しかし、御幸はふっと、笑うように軽い息を吐いた。

 
「いーよ」
「⋯⋯え」

 
 たまに御幸は、こういう声を出す。
 声だけなのに、頭を撫でられている錯覚に陥るような。優しくて、あたたかくて、愛のなかに潜むほんの少しの切なさも滲ませて。

 たった一言なのに、胸が詰まる。
 

「お前が怖がりなのは十分知ってるし、つーかお前も沢村も悪くない状況だったのに、二人とも俺に誠実すぎてちょっと笑っちまってるくらいだし、吉川はとんだとばっちりだし」
「え⋯⋯」 
「まぁ沢村に一発くらいは食らわすけどな」
「あれっ」


 はは、冗談だよ。と続かなかったので、恐らく本気なのだと思う。ごめん、沢村くん。
 

「っつーわけでこの話は終わりな。お前は要らない罪悪感抱えなくてよし」
「⋯⋯っ、ありがとう」 
「それはそうと、合宿自体は? どーだった?」
「え、あ、楽しかった! 練習も試合もたくさんしたし、沢村くんと毎晩自主練もしたりして、ちょっと懐かしくなっちゃった」
「青道ん時みたいで?」
「うん。沢村くんがいて、もっち先輩がいて──」

 
 いつでも思い浮かべることのできる情景だ。いや、思い浮かべるというよりも、いつでも眼裏にあるというべきか、無意識にふと懐古しているというべきか。

 
「一也くんが⋯⋯一也くんも、」


 ──いたらよかったのに。

 

 あの場所に“未練”はない。やりきった。青春と呼べるすべてを置いてきたと言ってもいい。

 残っているのは、いつまで経っても消えない、痛いほどの郷愁だけだ。まるで杭でも打ったかのように心の奥深くに刺さり込んで。幸せな記憶でしかないのに、ふとした瞬間にじくじくと痛んだり、悲しみさえ惹起させることがある。かけがえのないものを得たと同時に、厄介なものを抱え込んでしまった。

 きっとこれは、生涯消えることがない。

 誰しもが多かれ少なかれ持っているのであろうこの気持ちを、人類はどういなしながら生きていっているのだろう。声を上げず。顔にも出さず。これらが襲い来る時を、どうやって越えていくのだろう。
 

「ね、今度一緒にどこかのグラウンド行きたいな。誰もいない時間に」


 青空の下。風の香るグラウンド。眩しい光の中。幼い頃から見つめてきた姿にはやはり、その光景がよく似合う。あの場所でしか得られない何かが確かにあるのだ。

 だから、いつまでも懐古し感傷に浸るつもりではないけれど。

 たまには、許してほしい。
 

「って言っても、野球人はみんな朝早いんだよねぇ。夜明けくらいに行かなきゃだめなんじゃ⋯⋯」
「はは、違いねぇ」


 名前の言葉に相槌を打つ御幸は、その胸の内で渦巻く思いに手を拱いていた。
  
 覚悟はしていた。生活をする場所が離れるほどに御幸の知らない世界の話が増えることなど、とうの昔から覚悟していた。その覚悟のもとで、名前を手放さないと心に誓った。

 しかしどうだろう。
 
 名前の口から語られる合宿中の話──気を遣ってか、倉持と沢村、そしてマネージャー同士の話が九割九分を占めているというのに──が、想像していた以上に自分をいたぶってくるのだ。
 
 殴られるような痛みではない。じわじわと、気付けば巣食っているような。じくじくと、ゆっくりと蝕まれるような。嫌な痛みだ。

 自分でも量りかねている。
 
 嫉妬だろうか。焦燥だろうか。寂寥だろうか。昨年、名前が高三だった時には抱かなかったこの気持ちに見合う名前を、御幸はまだ、見つけることができない。

 だから今は、少しでも名前と。 
 

「じゃあさ、俺からもひとつ提案」
「ん?」
「デートしようぜ」
「で⋯⋯デート⋯⋯?」


 束の間、ぽっかりと口を開く。デート。デート?! その音を何度も頭の中で繰り返し響かせてから、名前は思い出したように声を出した。

 
「⋯⋯えっ、デっ、い、いいの?!」
「良いも何も⋯⋯前から言ってるけど、お前はちょっと気にし過ぎだって」
「だってー⋯⋯」


 そんなことを言われましても、と微妙な表情をしてしまう。ついこの間嫌な出来事があったばかりということもあり、余計に気になってしまう。


「名前は野球側の人間だからピンと来ないかもしんねぇけど、二軍の選手の知名度なんて、名前と変わんねぇよ。ユニフォーム着てなきゃ尚更な」
「ふふ、それはさすがに低く見積もりすぎ」
「そんなもんだって。つってもまぁこの間あんなことがあったばっかだし、名前も不安だろうから、いわゆるお忍びにするか」
「お忍びデート⋯⋯!」
「今“そわっ”ってしただろ」
「あはっ、バレてる」


 話しながら、心底思う。

 ──早く一人前になりてぇな。

 デートのひとつくらい、何不自由なく、極自然にできるように。隠さなくてはいけないことなど何もしていないのだから。


「で、どう?」
「⋯⋯する! 欲求に抗いきれない!」
「抗わなくていーんだって。スケジュール的にすぐには難しいけど⋯⋯あとで日程の候補送るわ」
「わーい! ありがとう!!」
「そんじゃそろそろ寝るか。ゆっくり休めよ」
「うん! 一也くんも!」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ!!」
 

 非常に高いテンションで通話を終わらせる。やはり不安はあるが、それでもこれほど嬉しいことはない。デート。デートかあ。その単語にすっかりと浮足立ってしまった名前は、合宿の疲れも忘れ、一晩中ぎらぎらと目を輝かせてプランを考えていた。

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