「そろそろ上がろっか?」
「ん? おお、もうこんな時間か、そーだな」
時間を確認した沢村が、手の中でボールを転がして言う。沢村のトンデモ体力に付き合ってもへばることなく最終日まで突っ走ってくることのできた自分を、少し誇らしく思う。
「夜練は最後だから全部片付けないとだね。沢村くん、ボール運ぶの手伝ってくれる?」
「いや、俺らでやるから苗字は先戻っていーぜ」
「え」
な、なんか紳士になってない⋯⋯?!
などと失礼なことを思いながら、落ちていた球を籠に放る。
「ありがとね。でもやらせてよ、何もしないとそわそわしちゃうから」
「わはは、立派な職業病だな!」
「じゃー二人はそっち頼むな。俺らは戸締りとか電気の始末とかしとくわ。片付けたらそのまま部屋戻って大丈夫だぜ」
「はーい、お願いします」
残る真田たちに軽く頭を下げ、沢村と二人、練習場から少し歩いたところにある用具室へ、球の籠をうんしょうんしょと運ぶ。
虫の声がする。夏の夜の匂いだ。古ぼけた電灯が照らす道程に、足音がふたつ響いている。
「まだまだ夏だな」
「うん」
「合宿楽しかったな!」
「うん」
「あー、久々にキャップに受けてもらいてぇな」
「ふふ、この間も電話で言ってたよ」
「そりゃ、お前と同じだからな」
「?」
ぼやけた照明を受け陰影を多く纏った沢村は、夜空を見上げている。視線を追いかける。よく晴れた夜の空に、星が瞬いている。ちらちらと揺れて。宵闇を彩る。
「あの人はさ、ほら、原点みてぇなもんだから。やっぱたまに受けてもらいてぇなって思うよ。成長したとこ見てもらいてぇなーとかも思うし」
星ばかりを見ているから、表情はわからない。しかしその声に熱が籠もっていることだけは確かだ。
「俺もお前も、あの男に人生変えられちまったもんな!」
「──うん」
才ある人の所以だろうか。
いろんな人の人生を巻き込みながら己が道を進んでいく。圧倒的なまでの存在感。求心力。名前たちは惹きつけられてしまった者同士。
その人生に、悔いはない。
話しているうちに辿り着いた用具室。錆び付いて重たい戸を開くと、中はほぼ闇──昨日電球が切れてしまい、交換が間に合っていないのだ──だった。小窓から僅かに漏れ入る光を頼りに籠を棚に片付け、外へ出ようとした、まさにその時だった。
──ぺちょり。
不意に、頬に異質な感触。「ひっ」と短く吸った息が、止まる。湿っていて、冷たくて、妙に柔らかい感触だ。想起されるのは夜に音もなく忍び寄る、そうだ、まさに異形のもの。
さっと血の気が引くのがわかる。心臓が早鐘のようだ。意識せずとも悲鳴が出て、飛び上がっていた。
「ひっ、きゃーーーーっっっ!!!!」
「ヒィッ、ぎゃーーーーッッ??!!」
時を同じくして沢村からも悲鳴が上がっていた。沢村も同じ状況なのだろうか。兎も角にも飛び上がった勢いのまま、背後の用具室へ転がり込むように戻る。
「いやーっ、なんかほっぺに触った!!! 沢村くんっ、閉めて! こっち! こっちーーー!」
「俺も! 何だあれ?! ほら閉めたから早くッ、奥行け!!」
「電気っ、電気!」
「切れてんだって! んんん南無三悪霊退散!」
「悪霊?! やっぱりオバケなの?! 虫とかじゃないの?!」
「知らん! アーメンアーメン! 南無釈迦牟尼仏ーーっ!」
田舎育ちで虫には滅法強い──と勝手に思っている──沢村も、姿形の見えぬものには弱いらしい。素直だし信心深そうでもあるから納得ではある。
という話はさておき、同レベルで怖がっている人間が二人いても何の解決にもならないということだけが、今は確かだ。
「どどどうしよう、怖い⋯⋯っ、思い切って外に逃げたほうがいいのかな?!」
「確かにここに留まってんのも怖ぇ! やるか?! 逃げるか?!」
「えっでももうドア開かない! なんで?!」
焦ってしまって、空回る。沢村の返答を待たずに力いっぱい戸を揺すっていた。しかし錆びたけたたましい音が鳴るだけで開かない。
「なんで結論出す前に開けようとしたんだよ! しかも開かねーの?!」
「開かないの! 閉じ込められちゃった! どうし──」
──ガタガタガタッ!
突然小窓が大きく揺れ、突風に曝されたかのような音が出た。あまりの恐怖に名前はついに泣き出し、沢村を羽交い締めにする。理性など働いていない。ただただ恐怖心に支配され、もはや騒ぐこともできず、ぐじゅぐじゅと泣きながらひたすらに助けを乞うている。
「ひっく、やだ⋯⋯死にたくないよぉ⋯⋯たす、助けて⋯⋯」
対する沢村は、名前の姿にさっと顔色を変えた。急に地に足が着いたような、すんっと恐怖が退いたような。脳裏に浮かんでいるのは勿論、激昂する御幸の姿である。
「うおおキャップに殺される⋯⋯! 離れろー!」
「やっ、やだ、離れないでよー!!!!」
かといって、より一層しがみついてくる名前を力任せに無理矢理ひっぺがすこともできず、沢村は両手を上げたじろぐ。
「落ち着け苗字、くっそー誰か俺の無実を証明してくれ──うぎゃッ!」
「むぐっ」
一歩、二歩と下がっていた沢村が、何かに躓き転ぶ。勿論必死にしがみついていた名前も転ぶわけで、二人から潰れた声が出る。
その時だった。
「おーい、大丈夫かー」
名前たちの緊迫感とはあまりにも乖離した、のんびりとした声。つい先程まで一緒に自主練をしていたメンバーたちのものだ。ほっとする間もなく、開かなかったはずの扉がすんなりと動き出す。仄かな明かりを背負って、真田たちが立っている。
「アイツら悪ふざけしてたみてぇで⋯⋯って何してんの?」
泣きながら沢村を押し倒している名前と、バンザイの姿勢のまま硬直している沢村と。散らばる球の中で折り重なるように倒れている名前たちに呆れた声がかかる。
「何もしてねぇッス! 見てください! 無実ですよね俺?!」
「ハハ、流石に無実なことくらい分かるよ。形相必死過ぎかって。──ほら、立てるか?」
助け起こされながら聞くに、合宿最終日に気が大きくなった幾名かが、各所でドッキリを仕掛け動画を撮って回っていたというのだ。ちなみに彼らは、のちにきちんと大目玉を食らうことになる。
「──へ? こんにゃく?」
「え? 鍵かかってなかったんですか? 開かなかったんじゃなくて開ける方向間違ってただけ?」
ド定番アイテムとただのおっちょこちょいさにまんまとやられた名前たちは、己のチョロさに頭を抱えると同時にドッキリであったことに心底安堵し、ふらふらと部屋に戻っていた。
その道すがら、不意に真田が、名前の腕を掴む。合宿所に入り、照明で視界が明るくなったタイミングだった。
「あれ、名前、肘んとこ血出てるぜ」
「? あ、ほんとだ」
捻って見てみると、想像よりも派手に擦りむいてしまっていた。血が滲み、言われてみればじんじんと痛んでいる。必死だったからまったく気が付かなかった。用具室内を転げ回っている間に擦りむいてしまったのだろう。
「大丈夫です、全然痛くないです」
「それはアドレナリンのせい。ほら、膝からも」
「あはは、小学生みたいですね、あちこち怪我して」
呑気に笑う名前に溜め息をついて、真田は無言でマネージャーの部屋まで名前を連れていく。
コンコン、と軽いノック。
「はーい、おかえりー! ってあれ、真田くんも」
「夜にスミマセン。先輩方、ちょっとコイツの手当てしてやってくれません? 放っといたらしなさそうだから」
大丈夫なのに、と唇を尖らせる名前の腕を真田が掲げる。途端、ちいさな悲鳴が起こった。
「きゃーっ、傷だらけ!! なんで?! なんの自主練してきたの?!」
「お、お化けがぁ⋯⋯コンニャクで⋯⋯」
「えぇ???」
こうして、当面の間は鳴がいない時間の広い家をびくびくしながら生きていく、という要らなすぎるお土産を携えて、大学初の合宿に幕は下ろされたのだった。