孤独を噛んで
「棘、またないてるの?」
「……名前」
「わー、はなみず」
ふいてあげる、と名前は笑って、ポケットティッシュを取り出し棘の鼻を拭った。
五歳だった。
「……どうしてぼくがいっしょうけんめいしゃべると、みんなこわくなっちゃうの?」
「うん、へんだよねぇ。棘はこーんなにやさしいのにね」
「なんで、ぼくのことばはへんなんだろう」
「ううん、へんじゃないよ」
「……ぼくもみんなとあそびたい」
「……」
ぽろぽろと珠のような涙を零す棘の頭を、名前はちいさな手で撫でた。
棘は、生まれながらに呪言が使えた。
故に有意語を発するより以前から大人たちも相応の教育をしてきたわけだが、どうしたって子どもである。棘の言葉が、意図せず呪言となってしまうことはままあった。
しかしやはり、子どもである。
狗巻家の人間はもちろんのこと、ある程度呪術の扱いを知っている人間であれば、幼い棘の呪言に脅威を感じることはなかった。
ただ、自分を守ることも知らぬ棘自身と、呪術を知らぬ人間は。違った。
そしてそれは、名前も例外ではなかった。
この頃の名前はまだ、呪力で自身を守るなどできなかったし、そもそも呪術のなんたるかを知りもしなかった。
「名前もぼくがこわい?」
「ぜーんぜん」
ぱちりと大きく瞬いて、棘は俯き、呪印を隠すように口元を服にうずめた。伏せた目元に僅か新たな赤味が差していた。
「……ぼく、名前のことだいすき」
「わたしも棘、だーいすき」
呪術界は狭く、古くからの家同士の付き合いが今なお持たれることもざらではない。近所であれば尚更だった。
つまり名前と棘は、気ままに互いの家を行き来する仲だった。
「棘は、やさしいね」
名前はもう一度、そう告げた。
棘は、その特有の術式故に、ある頃を境に同世代の友人たちから倦厭されていた。幼少ながらにその異質さを感じ取れるようになってしまった頃だ。何かに夢中になった時、あるいは必死になった時、発する言葉に無意識に呪力が込められてしまう。
例えば鬼ごっこ。
棘が必死に「まって」と言えば、皆の足が止まった。
例えばお絵描き。
棘が「そのいろぼくにもかして」と言えば、皆がクレヨンを差し出した。
自らの意思に反する行動に、彼らはもちろん、棘すらも冷や汗をかいた。その不気味さを肌で感じ取ったからだった。
幼き暴力が、はじまった。
自分たちとは違う少数との生き方をまだ知らぬ彼らは、非情なまでに棘を嫌った。あからさまな疎外。「なんで?」「どうして?」そう涙ながらに問うた棘の姿が、名前にはひどく堪えた。
棘が近づこうとすればするほど、その懸隔は顕著になった。
次第に彼らの気持ちを悟った棘自らが、彼らと距離を取るようになった。決して彼らを詰ることなどしなかった棘は、本当に心根の優しい少年だった。
それでもこうして名前の前で涙を落とす姿を見て、名前の正義感のようなものが、幼き胸中で首を擡げた。
擡げてしまった。
だからこれは、いつしか起こり得た、起こるべくして起こった事件かもしれなかった。