孤独を噛んで
「ちょっと。なんで棘のことあんなふうにするの」
「だってあいつがしゃべると、みんなへんになるもん。かおにへんなもようもついてっし、キメェよ。にんげんじゃないんじゃね」
「なにもへんじゃない。あんなにやさしいこなのに」
「じゃあオマエがいっしょにいればいいだろ、ずっとさ。ヒューヒュー!」
……プツ、ン。
名前の中で何かが音を立てた。そして切れた。堪忍袋の緒と呼ばれるものだったのかもしれない。
彼らも然り。名前も然り。
大きな認識の差異を、上手く処理できないのだ。
「……しょーもな。さいこうにかっこわるいね。バカじゃないの」
怒りに任せ、嘲罵の言葉が出た。
棘のことを人間ではないなどと言う人間こそが、心底醜怪だと思った。だから、この時名前が知っていた最大級の暴言を投げつけた。
その言葉に相手も頭に血が上ったようで、「っ、うるせえ!」と名前の右手を力任せに掴んだ。
五歳、だった。
感情の抑制などまだ上手くはできず、簡単に手が出る。この時も例外ではなく、空いている対の手が名前を叩こうと振りかざされた。
この瞬間を、運悪く見ていたのだ。──棘が。たまたま通りかかってしまった。
棘は一瞬で悟った。
名前が自分のために行動してくれたのだと。そしてそのために、今まさにぶたれようとしているのだと。
咄嗟に叫んでいた。
「……名前!」
怒りは、呪力の源となる。
強い想いがのった言葉は、より強力な呪言となる。
「【──そのてをはなせ】」
普段の棘からは想像もできぬ、地を這うように低く冷えた声音だった。空気が、脳が、いやにびりびりと振動する。並々ならぬ気配に、鳩尾のあたりがひゅんと竦んだ。
その時はじめて棘の存在に気づいた名前が驚いたように振り返るのと、名前の手を掴んでいた腕が奇妙な音とともに弾かれるように跳ねたのが、同時だった。
状況を理解できず、三者が三様に目を丸くした。名前の目の前で、スローモーションのようにちいさな身体が後方に倒れる。
ほんの僅かののち、鼓膜を破らんばかりの悲鳴が轟いた。
「ひ、ぎぁぁァあぁ! たっ、たすけてェぇ! いた、いたいぃ!」
「え……? あ……、」
名前は痛みと恐怖にのたうち回るその姿を、周章狼狽した瞳で見下ろした。名前の腕を掴んでいた手が、人間としてあり得ぬ角度に、数ヶ所曲がっていた。
恐ろしい。そう思った。
知らないかたちに歪んだ人間の身体が、恐ろしい。
本能で感じた恐怖だった。
ともすれば気を失いそうな恐怖の中、震えた声が名前を呼んだ。
「──……名前」
「……と、げ」
壊れたからくり人形のように名前の頭部が動き、棘の姿をその双眸で捉えた。
顔を青ざめさせた棘は、酷く怯えた瞳に涙を浮かべていた。逡巡するように数回唇を開閉してから、消えそうな声で告げる。
「…………っいかないで」
懇願だった。
恐らくは名前が逃げ出すと思ったのだろう。可哀想なほど震えた声で、棘は願ったのだ。
この言葉に、呪力は篭っていなかった。先の一言にほとんどの呪力が使われたためか、棘がコントロールしたからかは、今でもわからない。
しかし確かに、呪力は篭っていなかった。
名前はただ、動けなかっただけなのだ。足が竦んでしまって。全身が震えてしまって。棘が怖かったのではない。地で転がる知らないかたちの人間が、聞いたことのない悲鳴が、怖かったのだ。
──いかないよ。棘をおいて、いくわけないじゃん。
そう言えばよかった。
言えたならよかった。
言えたら、よかったのに。
ぽかりと開いた名前の口から、言葉が出ることはなかった。ヒュー、ヒュー、と喉のあたりを通りにくそうに空気が出入りしただけだった。
名前も、棘も。
悲鳴を聞いた大人が駆けつけるまで、一歩も動くことができなかった。まるで呪いにでもかかったかのように、動くことができなかった。
棘は思ったことだろう。
自分の言葉が、名前をこの場に縫い止めてしまったのだと。そして自分の言葉が、これ程他者を傷つけてしまうものなのだと。生死に関わるほど絶大に。精神的にも。身体的にも。──名前までも。
この時の、何かに絶望した棘の表情を、名前は今でも鮮明に思い出す。