孤独を噛んで
名前は瞠目した。
何年になるだろうか。最後に棘に名を呼ばれてから、何年が経っていただろうか。
二度と聞くことはないと思っていた。
「棘……いま、」
頬を薄らと染め微笑んだ棘が、内緒話をするように人差し指を唇の前に立てた。
目の奥が、喉の奥が、つんと痛む。次の瞬間には眦からはらはらと涙が落ちた。それを追うように、棘のキスが降る。
やわらかく笑んだままの棘の唇が、ぱくぱくと動く。ゆっくりと作られるそのかたちを、名前はじいっと見守った。自慢じゃないが読唇術には自信がある。
(えっと……「い、しょ、う」)
“一生、隣にいて”
「──…っ」
先程の比ではない量の涙が流れてくる。照れたようにも困ったようにも見える表情の棘に抱え起こされる。棘は大腿の上に座るよう促し、涙が止まるまで抱きしめてくれた。
長い時間が流れたように思う。
すっかり泣き疲れた名前は、棘の腕に凭れぼうっと宙を見つめていた。名前の後頭部を撫でていた棘が、思い出したように、かつ念を押すように言う。
「おかか」
「ん?」
「おかかおかか」
「え……? 頭? ……あ、昼間、先生が触ったって? はっ、それで怒ってたの?」
微かに頬を膨らます棘に、名前はぱちくりと目を丸くした。僅かの間ののち、破顔する。心底愛おしいと思った。
「ふふ、棘、大好き」
「……」
こつん、と。額と額を合わせる。
上目で覗くと目が合って、どちらともなく笑い合う。
幸福だと、そう思う。
再び唇が重なる。食むように交わしていたキスは次第に深くなり、自然と舌が絡みだす。
裾から入り込んだ棘の手のひらが側腹部を撫で上げ、ついに膨らみに添えられる。
やわりと五指がそれぞれ包み込み、確かめるように沈み込む。徐々に存在を主張していたのであろう敏感な突起を、下着の上から棘の指先が捉えた。
「っ、ん」
刹那、背筋を駆け上がるような感覚に襲われ、名前の口から声が漏れた。
堪らず棘の首に回した手に力を込めた、──その瞬間だった。
カチャンと陽気な音を立ててドアノブが回り、見慣れた姿が現れたのだ。
「はーいお二人さーん! 話はついた? やっぱちょっと心配になっちゃってさあ。万が一ってことも──」
はたり。
動きを止めた名前が悟の姿を捉えるのと、棘が悟目掛けてクッションを放るのが同時だった。
クッションを無下限で弾きつつ、悟は「やっちゃったー」といった表情でけろっと笑った。
「……アハハ、全然仲良しそうだね! よかったよかった、僕のおかげ!」
「先生……心配してくれたのは嬉しいけど、ほんとーーーにまじでノックくらいしてよ。ていうか六眼でわかるんじゃないの」
「僕はさ、そんなところがお茶目でチャーミングなポイントなんだよね」
六眼のことには触れず、意味不明なことを言ってのける悟に、棘からゴゴゴゴゴォ……! と不穏なオーラが立ち昇る。
名前は慌てて棘の口元を覆った。
「と、棘っ、まって、気持ちはわかるけど駄目! 先生に呪言使っても絶っっ対返って来ちゃうから!鍵閉め忘れたのたぶんわたしだし! ね! すっっっごく気持ちはわかるけど! ね!」
名前に半ば抱きしめられるかたちで宥められる棘は、不服そうに悟を見上げた。その姿に、サングラスに隠れた悟の瞳が些か緩む。
「うん、円満円満。じゃ、退散しまーす! またねん!」
長居は無用、逃げるが勝ち!
そんな勢いで背を向け部屋から出て行きかけた悟が、「あ、」と振り返る。
「ちゃんと避妊はするんだよ。さすがにまだ育てらんないでしょ」
「っ、先生!」
「すじこツナ辛子明太子!」
開いた時と同様、陽気に閉まった扉に、ボッスン!!! ともうひとつのクッションが投げつけられた。
【孤独を噛んで】終