嘘って言ってみてよ


 古びた大椅子が軋んだ音を立てた。
 その次には特大の溜め息。
 長い足を組み、背もたれをぎっこぎっこと倒しながら資料に目を通していた悟から落ちたものだった。

 あーあ、疲れた。
 溜め息がそう告げる。

 元来デスクワークなどが向く性格ではないのだ、これっぽっちも。それに、上層部のくだらない薀蓄で埋められた文章など、一文字たりとも目に入れたくない。

 伊地知の理路整然とした味気のない報告書が、このときばかりは妙に恋しい。などと珍妙甚だしいことを思いながら、背もたれを目一杯倒し天井を見上げ、もう一度溜め息。そのまま顔の上にバサッと紙を乗せた。

 インクと、紙の匂い。
 鼻先のそれを吸い込んで、今度は「あーあ」と口にした。


「何か楽しいことないかなー」
「あはっ、全然仕事する気ないじゃん」
「名前、何か楽しいことやってよ」


 悟の部屋のソファにうつ伏せで寝転がり我が物顔で寛いでいた名前に、悟は無茶を振った。

 今日は何という理由でこの部屋に入り浸っていたんだったか。
 名前が悟の部屋を訪うのも、そのために毎度違う適当な理由を並べるのも日常茶飯事になってしまっていて、悟も適当に聞き流しながら招き入れたものだから、まったく覚えていなかった。

 突然に無茶の矛先を向けられた名前は、スマホの画面へ視線を落としたまま「今日はいい天気だね」くらいの軽い口調で答える。


「そうだなあ。楽しいことじゃないかもしんないけど、報告しとくね」
「なーにー」
「わたし、やめることにしたよ」
「何をー?」
「先生を好きでいるの、やめることにしたの」


 この時初めて、悟は名前を見た。

 カサリ。
 悟の顔の上から退けられた薀蓄たっぷりのゴミみたいな紙切れが、耳に障る。

 やはりその手の中のちいさな液晶を見つめたまま、名前は、それが摂理であるかのような口調で告げたのだ。

 いち。に。さん。

 彼女の言葉を三度反芻して、悟は口を開いた。「あ、そうなんだー」と、そう言葉を作りたかった。しかし咽喉が生み出したのは、笑ってしまうくらい間の抜けた一文字だけだった。



「…………は?」





「先生おはよ、今日もイケメンだね! 好き!」
「おっはよー、名前も可愛いよ。なんか今日は一段とお肌きれいじゃん」
「わ、さすが先生。この間化粧水とかもろもろ変えてみたの。めっちゃ高いやつに。わかる?」
「うん、わかる。ね、恵」
「え。俺にそういう話振んないでください。つーかわかんねぇし」
「あ、そー。恵にはまだ早かったか。じゃあ悠仁」
「え? ごめん聞いてなかった、何?」


 伏黒と虎杖の返事に、ぽかんと一間。それから名前はけたけたと笑った。


「あはは、わたしの同級生、わたしに興味なさすぎじゃない? まぁ先生が気づいてくれるなら何でもいいんだけど」



 名前は、悟が担当する一学年の一生徒だ。

 忘れもしないのは、初対面。
 名前は悟を見上げ、感嘆の息を漏らしたのだ。


「っはー、噂だけ聞いてどんなゴリゴリ筋肉マッチョかと思ってたら、全然違った」
「えー、五条悟は超絶イケメンって噂流れてないの? 世の中終わってんね」
「えっ、イケメン、見たい」
「わお、いきなりエッチ」
「ふふ、どっちかって言うと先生のその目隠しのほうが全然えっち。ね、いいじゃん、かっこいいお顔見せて」


 にこりとハートをくっつけて小首を傾げて見せた名前に、悟の変なところが擽られた。

 直球、ドストレート、物怖じなし。真っ直ぐに向かってくる言葉には、裏や疚しさなどは皆無で、悟は思った。

 悪い気は、しない。と。


「フフ、じゃあ入学祝いの特別出血大サービスね。卒倒しないでよ」


 目隠しに指がかかったこの瞬間、悟と名前の時間は、音もなく動き出した。

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