嘘って言ってみてよ


「ねー、名前は僕のどこがそんな好きなの」
「顔」
「あとは」
「声」
「あとは?」
「身体」
「あとはー?」
「こころ」
「アハハ、全部じゃん」
「そ、全部だよ」


 名前の赤い舌先が、白色のクリームを掬った。
 高専の近くにクレープの移動販売車が来たという情報をどこからか聞きつけ、「先生、先生、デート行こう! クレープ食べに行こう!」と駆け込んできたのが、十五分前。

 甘いものは、好きだ。

 別にデートがどうとかではなく、単に小腹を満たすため、そしてたまには可愛い生徒におやつでもご馳走しようと、名前と揃って歩を運んだ。


「じゃあ次は意地悪な質問ね。僕の心をさ、名前は知ってんの?」


 心。内面。気持ち。性格。
 表現は別に何だっていい。

 ただ、聞いてみたいと思ったのだ。名前は一体、自分のどこをそんなに好いてくれているのだろうかと。


「ううん、知らないよ。わたしに見せてくれる先生のほんのほんの少しの心しか知らない。先生そういうとこのガード硬いし。しかもそれは、一般的にはあんまりいいとは言われない側面が多いのかもしれないね。自分勝手、破天荒、軽薄、性格悪い、なーんていろんなこと言われるでしょ」
「まぁね、嘘じゃあないし」
「ふふ。それに他のことも、ほんのちょっとしか知らない。先生がどんなふうに生きてきたのか、とかね。でも好きなの。いま目の前にいる先生のことが、大好き。それじゃダメ?」
「……ダメなんかじゃないさ。名前の心は名前のものだ」


 彼女は何度、口にしただろうか。

 ──好きだ、と。

 名前が、悟のことを好きだと、一体何度口にしてきたことだろう。

 名前から寄せられる好意は、素直に心地が良かった。

 好き勝手に生きている自覚はあるし、別に他者に求められなければ足元がぐらつくような生き方はしていない。それでも、飾らない自分を手放しで好いてもらえるというのは、酷く居心地がよかった。追われる安心感や、何に対してなのかわからぬ優越感に、満たされていた。

 だから想像などしたことがなった。
 名前の視線が悟を捉えぬ日々が、名前のこころが悟に向かぬ日常が、いつか起こり得るということを。








 名前はどうやら、本当に悟への好き好きアピールをやめたようだった。

 というか、悟への興味を失ったかのようだった。

 ひとりの生徒と。
 ひとりの教師と。

 残ったのは、どこにでもあるふつうの、一般的な、その年頃相応の生徒と教師の関係だった。

 あからさまに避けたり、会話が不自然だったり、そういった変化があるわけではない。ただ、名前から向けられていた特別な視線も、笑ってしまうくらい付き纏っていた名前の空気も、一切の後腐れなくどこかへ行ってしまった。

 ただ、それだけだった。


「名前ー、最近元気なの?」
「? うん、元気だよ。だいたい毎日会ってるじゃん」
「うん、そりゃ、授業とかではね」
「? うん」


 名前は、悟の意図を掴みかねたようで、きょとんと見上げてくる。

 無性に、苛ついた。

 当たり前は恐ろしい。じわりじわりと日常を侵食して、気がつけばそこに巣食っている。

 失ってはじめて気がつく。

 なんて、誰しもが聞いたことのあるありふれた台詞だ。それなのに、この言葉を聞くたびに戒めのように思う。そうか。当たり前は、誰にとっても、いつまでも、当たり前であるわけではないのだ。だから大切にしなければならぬのだ、と。しかし事あるごとにこの言葉が世間を歩くのは、失ってみなければその尊さを見誤ってしまうからだ。身に沁みないからだ。

 こんなこと、十年も前に嫌というほど味わった。それでもこうして繰り返してしまうあたり、平和に慣れてしまった人間の業のようで、反吐が出る。


「……名前さ、」


 そう口にした時だった。
 悟の背後、二十メートルほどの廊下の曲がり角で発せられた名前を呼ぶ声が、悟の言葉をぴしゃりと遮った。


「名前ー! 早く来ないとおいてくわよー!」
「はあい今行くー! 先生ごめんね、これから野薔薇と遊びに行くんだ。今日はもう授業ないし。新しくできたクレープ屋さん行って、そのあとは洋服見に行くの」
「……へー、いいね」
「うん。あ、ちなみに先生はどっちの服が好み?」
「ん?」


 名前の手の中の液晶が悟に向く。それを見比べ、悟は特段疑問も抱かずに答えた。


「コッチかな。名前に似合うよ」
「こっち? そっか」


 顔を綻ばせた名前を、野薔薇の急かすような声が再度呼ぶ。


「コォラ名前ー!!」
「はあいー!! ……っと、じゃあね先生、ありがと!」


 悟の脇を、名前がすり抜ける。シャンプーだろうか。甘い香りがふわりと漂った。名前と食べたクレープの、甘ったるい匂いによく似ている。

 悟はちいさく頭を掻いた。


「……あーあ、今日は僕がクレープに誘おうと思ってたんだけどな」








「ねえ悠仁。何アレ、きゃっきゃして」
「ん? ああ、五条先生か」
「またどっかに新しいスイーツでも食べに行くの?」


 悟の示した指先で、名前と野薔薇がキャッキャと声を上げながら高専を出ていくところだった。


「なんかよくわからんけど、どっかの大学生と合コンすんだってさ。釘アがこの間引っ掛けて(?)きたっつって」
「は?」
「(主に釘アが)張り切っててさ、今日のための服とかも買いに行ってたよ」


 今しがた悟の視界からいなくなった名前の姿を思い浮かべる。ああ、本当だ。確かにあの日、悟が選んだ服に酷似していた。

 そして腹が立つことに、よく似合っていた。


「……ふうん。僕の選んだ服着て、合コン行くってわけ」
「……センセ? 怒ってんの?」
「いーや全然」
「そ? めっちゃ怒って見えっけど」


 傾げられた悠仁の頭をぽふっと撫でてから、自室に戻る。


 ──“先生ー! おそーい、待ちくたびれちゃった”
 ──“アハハ、不法侵入。凄いね、どうやって入ったの”
 ──“わたしくらい先生のこと好きだと入れるんだよ”
 ──“へー、すごーい”
 ──“ふふ、超棒読みじゃん”


 名前の声がなくなって、もうどれだけ経ったか。心底嬉しそうに悟を呼ぶ、懐かしい声。

 先生ー! 
 今日もかっこいいね。
 大好き!

 ちっくんと。記憶に胸のあたりを刺された気がして、悟は瞼を閉じた。

 別に、生活が何か変化したわけでない。ただ、少し足りないだけだ。

 名前が、足りないだけだ。

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