白ではない
恵の匂いのするブルゾンに口元までをうずめて、名前はそっと口を開く。
「わたしね、この時間に生まれたんだって。朝陽が昇る、この瞬間」
「……そうか」
母は、いない。
母は、名前を産んだ時にこの世を去った。名前の命か。母の命か。どちらかしか救えぬと告げられ、母は迷わず名前を選んだそうだ。産声をあげる名前を腕に抱き、この名を与え、そうして永遠に瞼を閉じた。
高専入学で家を離れるまで、母は交通事故で亡くなったと聞いていた。
──いつか話そうと思っていた。
父はそう切り出し、穏やかに、誇らしげに語った。
母を奪った名前の命を疎ましく思うことだってきっとあったはずなのだ。しかしそれを微塵も悟らせず、男手ひとつで懸命に育て上げてくれた。
故に、母に纏わる記憶はない。
ないはずなのだ。
しかし極々まれに、夢にみるものがある。
やわらかく慈愛に満ちた声音で名前を呼ぶ声と、身体を包む腕のぬくもり。どちらも名前の知らぬものだった。
覚醒めると必ず涙が流れていて、そこにないはずの体温を抱くように自らの身体を抱きしめる。
そんなふうに過ごす朝が、必ず今日という日であると気づいたのが、中学生になったとき。その意味を理解したのが、父の話を聞いたとき。
哀しくはないが、切なくはある。
辛くはないが、苦しくはある。
ひとりで迎える朝は厭だ。夢を醒めさせる朝が厭だ。母がその身を呈して与えてくれたこの命の祝宴の日なのに、こんなふうに思ってしまうのが厭だ。
そんな朝を変えてみたくて、恵に無理を言ってしまった。ひとりで朝陽と対峙する勇気までは、持てなかったからだ。
だが、まさか誕生日を知られていたとは思わなかったから、祝福の言葉をもらえるとは思わなかったから、こうして──涙があふれるほど胸があたたかいではないか。
朝は、あたたかいではないか。
「……なに、恵」
背後から恵の腕が抱えるように回ってきて、名前はずびっと鼻を啜って問うた。
「いや、なんか……何だろうな」
「ふふ、なにそれ」
「ほらオマエちっこいし」
「ふふ、うん」
「そんなちっこいと抱えきれないことのひとつやふたつあんだろ」
「ふふ、そうかな」
「それに、」
──オマエ、俺のこと好きだろ。
先程よりさらに耳朶のすぐそこで囁かれ、名前は硬直した。ぴしりと固まったまま動くことができず、互いに無言のまま均衡が保たれた。
随分と太陽が地平を越えた頃、先に恵が痺れを切らした。
「……何か言えば」
「……何かって、……その……え、バレてた?」
「俺に分かるくらいには分かりやすい」
背後でこくりと頷く恵を、意を決して振り返る。涙はとうに乾いていた。
「……それで、恵はわたしの気持ちを知ってて、それを確認して……どうするの?」
唇が微かに震えた。固唾を呑む。
真っ直ぐに恵の双眸を見据える。ヒュォォと煽られ、髪が空を舞う。
表情の変わらない恵が、舞い続ける名前の髪を撫でるように押さえた。不意の行動にぴくりと身を固くした名前の唇に、
──恵の唇が重なった。
「はい、これ返事」
「っ、な、」
ぱくぱくと口を動かすだけで言葉の出て来ぬ名前を見て、恵はちいさく笑む。
遥か上空を仰ぐ。
空はとうに、白んでいた。
【白ではない】終
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20220131追記
本誌で恵くんが、鵺は人を乗せて長く飛べないって言ってました。いっぱい飛んじゃった!式神を愛でるフィクションとして目を瞑っていただけますと嬉しいです。