白ではない
「う、わ、いやあぁあーーーー!」
声が置き去りにされた。
そう錯覚するスピードで鵺は翼をおおきく広げ地面すれすれを飛び、ぐんと勢いをつけて空高くへ舞い上がった。沸き立った土埃がその速度を示していた。
「は、っや……びっくりした」
「ちゃんと掴まっとけ」
「うん。うわぁ高い……」
耳元で風を切る音がする。煽られる髪を押さえる。真正面から顔にぶつかる風の冷たさに、名前は納得した。恵の言っていたのはこういうことかと。しかし、恵の上着のおかげであたたかい。
「恵、寒くない?」
「オマエが風除けになってるからな」
「あ、そう、わたしがね」
鵺は高専の上空でおおきく円を描くように飛んでいた。鵺の頭から翼にかけてのシルエットが浮世離れしていて、本当に空を飛んでいるのだと、名前の頬がほくりと火照る。
見下ろすと、随分下に高専が見えた。
「落ちんなよ」
「うん、大丈夫。ね、見て見てあんなにちっちゃい!」
「身乗り出すなって」
「うん、だいじょ──」
つるっ!
言ったそばから鵺に付いていた手が滑り、名前の身体が傾ぐ。反射的に伸びた恵の手が、名前の首根っこをしっかりと掴んだ。
「…………」
恵の手により吊るされたままの名前の背後から、並々ならぬ何かが立ち昇る。物言わぬ恵から放たれる圧力に慄きつつ、名前はゆっくりと──できれば振り向きたくはないのだがそういう訳にもいかない、という気持ちの表れである──振り返った。
「あ、はは、ごめんなさい」
「オマエは子どもか」
「ホントにごめんなさい、この通り」
ぱちんと両の手のひらを合わせ、合掌するように謝る名前に、「だから手離すなっつってんだろ」と恵からお叱り飛ぶ。
「ごめん、もう離しません」
「言って分からねぇヤツにはお仕置きだ」
「えっ、やだなに、まっ──」
視界がすっと暗転する。
恵の手に目隠しされたのだと理解し、何するの、と口にしようとしたが、それより数拍はやく「鵺、いいぞ」と声がした。
次の瞬間、鵺がおおきく旋回し、ぐぐんとスピードが上がった。風切音と肌で感じる風の重みでそれがわかる。
「め、恵っ、こわい」
「落としたりはしねぇから大丈夫だ」
「そういうことじゃな、……っ、落とさないでね!」
視覚を失った途端、平衡感覚が鈍る。ただでさえ不安定な鵺の上、目隠しをするついでに支えてくれている恵の身体がなければ、名前はとっくに転がり落ちていただろう。
故に大人しく全身に風を受け続けること、一分ほどだろうか。
「よし、もういいぞ」
恵の手がひらりと離れる。
その瞬間、視界いっぱいにまばゆい光景が広がった。
「わ、ぁ……」
夜を突き破る朝陽へと向かって、鵺が真っ直ぐに飛ぶ。きらきらきら。光が転がり、鵺の細やかな羽毛を緻密に光らせる。周りには何もない。空、という場所だった。
──綺麗だ。
言葉にしつくせぬ朝焼けをただ呆然と見つめていると、耳元に恵の顔が近づく気配がした。
ぽそり。
風にかき消されてしまいそうな、呟きが落ちる。
「誕生日、おめでと」
名前は目を丸くした。
朝焼けをその瞳に映したまま、そっと口にする。
「……なんだ、知ってたの」
「じゃなきゃこんなの付き合わねぇよ」
「ふふ、嘘ばっか。恵は付き合ってくれるよ、やさしいもん」
恵の不器用な優しさが好きだ。
偽善でも建前でもない、真摯に与えられる優しさの心地よさ。存外稀有なものなのではないかと、名前は思う。
しかし何が不満だったのか、恵は不機嫌な声を出した。
「は? 俺が優しいわけあるかよ」
「あはは、なんで怒ってるの」
ちなみに、昨日悠仁と野薔薇が教室を飛び出していったのは、今晩のサプライズ誕生日パーティーの準備のためであったのだが、名前がそれを知るのはもう少し先のお話である。