きみの破片が心臓に刺さる
「わ、立った」
「え、ナニが?」
「……ちょっと、昼間から変な冗談やめてよ」
「あ、心外ー! 僕は“何が?”って聞いただけなのに。勝手に勘違いしたの名前じゃん、やらしー」
「〜〜〜〜っ」
ストン! ストン!
名前が手にしていたカステラナイフが、地球のコアに突き刺さらんばかりの勢いで振り下ろされた。まな板の上では高級カステラが恐ろしく鋭利なもので切断された如く、見事な断面で均等に切り分けられている。
「……はい、どーぞ!」
悟の座るソファの前、ローテーブルに心なしか強めに皿が置かれる。その勢いで、皿の上に行儀よく並んでいたカステラが一切れ倒れた。
「美味しそ〜〜! ……あれ、今日やけに切るの上手くない? ナイフ変えたっけ?」
「変えてません!」
「だよねぇ。あ、立ったってこれか、茶柱」
次いで運ばれた湯呑み。薄緑の芳香な玉露が満ちるそこに当該のものを見つけた悟は「僕初めて見たかも」と呑気に指を差した。
「よかったね。どうぞ」
「なーに、そんなぷりぷりしてないで。そんなに茶柱入りが飲みたいなら素直にそう言えばいいのに」
手がかかるなあ、みたいな雰囲気で悟の湯呑みを差し出され、名前は数多のものを噛み潰したような表情で「それはそれはご親切にありがとう!」と湯呑みを受け取った。
こんなことは日常茶飯事である。お茶だけに。いちいち腹を立てていてはやっていられない。
どうにか気持ちを落ち着けてから、名前はカステラを一欠片口に運んだ。
「ふふ、美味しい」
「さすが老舗だよね。それにしても、最近アレだね」
「うん?」
「なんか最近さ、名前ツイてない?」
「うん」
名前は神妙な面持ちで肯いた。
その通りなのだ。
先日ふらっと通りがかった福引コーナーでは特賞を引き当て、そのまた先日ふらっと入ったレストランでは記念すべき来店者一万人目を踏み特別ディナーを振る舞われた。
その他、落とした財布を親切なお婆さんが拾ってくれたり、強風でベランダから飛んでいってしまったブラジャーがたまたま下を歩いていた悟の顔面に着地したり、等々、大小は様々あれど、とにかく最近の名前はツイているのだ。
茶柱の立つ湯呑みへと口をつけ、控えめに啜る。液面に映る自身の顔を見つめて、名前は呟いた。
「なんか嫌な予感がする……」
⁑
その数日後のことだった。
「名前!」
バアン! と蹴破られる勢いで扉が開いた。否、蝶番のネジが数本飛んでいる。最早蹴破られたようなものだった。
以前どこかで見た光景である。
「……オマエは毎度毎度この部屋の扉を何だと思ってんだ」
「名前は?」
「そっち」
溜め息とともに硝子が示した先のベッドに、名前は横たわっていた。重たそうに目蓋を閉じ、静かな寝息を立てている。
「よかった、生きてる……」
「? 報告聞いてなかったのか」
「報告?」
名前が大怪我をしたと聞き、取るものもとりあえず飛んできた。確かに伊地知が何か喋っていた気もするし、今思えばそこでしっかり話を聞いたほうが現状把握は早いに決まっているのに、身体が勝手に動いていた。
名前のこととなるといつもこれだ。
心底の安堵を浮かべた表情で、悟はほっと息をついた。
「なんで毎回頭ばっか怪我するかな、この子は」
年がら年中、二十四時間三百六十五日傍にいられないことが悔やまれる。どんなに悟が手を回したところで、名前に当てられる危険な任務すべてを無くせないことが悔やまれる。
過剰に守られることを名前は嫌うが、それは決して名前の実力不足ではない。ただの悟の超絶重たい束縛の延長線であると、そろそろ気付いてもらいたいものだ。
いつかと同じく真白な包帯の巻かれた頭部を、そっと撫でる。今日も今日とてその環指にしっかりと指輪がはめられている左手を、数サイズおおきなお揃いの指輪をつけた自身の左手で包む。
悟が落ち着くのを待ってからのらりと近付いてきた硝子に、悟は問うた。
「今回もいつ目覚めるかわかんない、か」
「…………」
「……硝子?」
無言で名前を見下ろし何事かを思案する硝子の表情に、悟は胸騒ぎを覚えた。これが虫の知らせというものか。とにかく、暗く重たい嫌な感覚が襲う。
本能で、このあとに続くはずの硝子の言葉を聞きたくない、と思った。
「……五条、少し気になることが」
硝子が言いかけた、その時だった。
名前がぱちっと目を開き、ついでにむくりと起き上がったのだ。突然の出来事に悟も硝子も目を丸くした。
目覚めたばかりの名前の瞳はどことなく焦点を結んでおらず、どこか宙の合間を見つめていた。
「うわ、びっくりした」
「コラ、急に起きるな、まだ障る」
悟と硝子、それぞれが声をかける。
声に反応しゆっくりと視線を巡らせた名前は、悟を見て、硝子を見て、もう一度悟を見て、もう一度硝子を見て、怪訝そうに眉を顰めた。
「……え、っと……誰、ですか?」
最後の“ですか?”は、敬語にすべきかどうかを迷った末、初対面だし無難に敬語にしておくか、みたいな意味合いに聞こえた。
名前の声なのに。
名前の声じゃない。
目の前の名前から感じる違和感は、こうとしか言い様がなかった。
「「…………何だって?」」
永遠とも感じられた沈黙を、二つの声が破った。
重なった声は言うまでもなく悟と硝子のもので、二人は目の前の名前の顔をした知らない誰かを、穴があくほど見つめた。
「ちょ、ちょっとちょっと硝子、治療失敗してんじゃん! はやく! もっかい!」
「煩いわかってる。名前、ちょっと横になれ」
只ならぬことが起きたということは理解したらしい名前は、不思議そうな面持ちながらも大人しく身体を横たえた。
硝子の治療を、悟は臓腑がひっくり返るような、全身の血が凍りつくような感覚を必死に抑え込みながら見守った。
硝子の反転術式が失敗?
そんなことあるものか。
それならば、今の名前の反応は一体どういうことだ。動いていた。喋ってもいた。その目でしっかりと悟を見た。
記憶だけが、足りない。
ぐにゃりぐにゃりとかたちを変える地面を必死に踏みしめながら、悟は目隠しを外した。何かしらの呪術による影響であれば、六眼でわかる。
そう息巻いて暫く名前を見つめるが、乱れた心のせいか、乱れた己の呪力のせいか、上手く情報を処理できない。最愛の窮地にこそポンコツになる自分に、悟は滅法苛立った。
「……名前、どうだ。目開けれるか?」
治療を終えた硝子の声音には、珍しいことに非常に慎重な色が浮かんでいた。
──“私は名前が可愛いんだ”
いつかの硝子の言葉が蘇る。硝子も不安なのだ。その不安が悟には手に取るようにわかった。
言われた通りに目を開いた名前は、最も近くで覗き込むようにしていた硝子をしっかりと捉えた。
「あ……硝子先輩……あれ、なんでわたし忘れてたんだろう?」
刹那、世界中の溜め息を百年分ほど集めたくらい特大の溜め息が部屋を満たした。悟は光よりも速く名前の傍に寄り、流れるような自然な動作で抱きしめた。
「も〜〜〜ほんっっっとやめてよね、寿命千年くらい縮んだじゃん」
硝子から「どんだけ長生きだよクソ迷惑」なんて失礼甚だしい言葉を投げられたが、今なら何を言われたって許せる。
腕の中の名前を確かめるように力を込めると、名前が不自然に身体を固くした。
不思議に思い、悟は首を傾げる。再び胸が騒ぐ。思い返してみれば、その他にもおかしいことがあるのだ。硝子の名は呼んだくせに、悟の名を口にしようとしない。そもそも、悟を見もしない。
いつもなら、いつもの名前なら。
違和感が拭えない。確かめたくない。この違和感の正体を暴きたくない。
そう思うのに、耳を塞ぐことができなかった。それどころか、聞き漏らすまいと名前の言葉に全神経を集中させてしまっていた。
「……あの、さ、硝子先輩。初対面で抱きついてくるこのチャラい人誰? 先輩の新しい助手?」
──その瞬間、世界が凍りついた。