きみの破片が心臓に刺さる


「よし。選り取り見取り揃えたぞ」
「そんなバーゲンセールみたいに言わんでよ」


 硝子の言葉にすかさず悠仁が反応した。

 硝子は高専中の人間を手当り次第集めてきたようだった。呪術師、補助監督、生徒、果ては清掃員まで、とにかく目に付いた人間を引っ張ってきたのだろう。
 悟の知らぬ顔さえあるから、高専外からも招集しているのかもしれない。

 ぞろぞろと人が集まってくるその様を、悟は部屋の隅で壁に凭れて眺めていた。


「名前、いくぞ。まずこれは?」
「虎杖悠仁。宿儺の指食べちゃうちょっとやばい子。わたしに返してないDVDが二本ある」
「名前さん、言い方! あと返してなくてごめん!」
「よし正解だな。次、これは」
「七海パイセン。脱サラ呪術師。たまに焼き肉奢ってくれる。……あ、雄くんの遺影まで。雄くんごめんね、ご足労ありがとう。あのときの綿飴の味、今でも覚えてるよ」
「よし。次」
「えーーっと……この人は知らない、な」
「オッケ。ちなみにコレは私の行きつけのバーの新入りだ。ほーんの少しだけ呪霊が見える」


 硝子はここにいる全員にこれをやるつもりだろう。
 誰がわかって誰がわからないのか。何を覚えていて何を忘れているのか。現状は出来る限り正確に把握しておくに越したことはない。


「じゃあ最後、これは」


 硝子の持つペンの先が、一直線に悟を差した。

 その途端、部屋中に緊張が走る。
 皆の視線が悟へ向いて、それから物凄い緊張感を宿して名前へと向いた。

 それを気取ったのか、自分がこの人物を知らない──忘れているという表現が正しいが──ことが余程の重大事件だと理解しているのか。それまで普段通りにしていた名前の表情が、一瞬泣き出しそうに歪んだ。

 その表情に、悟までが泣きそうになってしまった。ああ、本当に、僕のことがわかんないのか。


「…………、ごめん、なさい」


 五往復だ。
 悟の頭頂から爪先を瞬きもせず五往復は視線で行き来して、それから名前は消え入りそうな声で呟いた。

 その場の誰もが声を発することができなかった。それ程の衝撃だった。名前と悟。二人は、二人でひとつなのに。


「……センセ、顔色が」
「……ああ、うん、ダイジョーブ」


 心配してくれたのだろう。悠仁がさり気なく隣にやってきて、悟を上目遣いで見上げた。

 何が大丈夫なものか。自分で言っておいてわからない。「まあ一時的なものでしょ、きっと。すぐ思い出すって! 皆そんな暗い顔しなーいの!」なんて振る舞えたら、どんなによかったか。

 一時的な記憶の喪失というには、その対象が余りにも限定的過ぎる。“悟”に限定されすぎている。

 ──一体、どういうことだ。


「五条」
「…………」
「──五条」
「あ、うん、何?」


 何度か名を呼ばれていたのだろうか。
 声の方へと顔を向けると、硝子が険しい顔をしていた。幾ばくか辛そうに──これは硝子にしては本当に珍しいことだった──眉を寄せてから、気を取り直したようにもう一度「五条」と呼ぶ。

 しっかりしろ、五条。

 そんなふうに聞こえた。


「こっち来い、この事象もっと詰めてくぞ」
「……そうだね」


 コツリ。悟の靴が床を叩く。
 皆の視線を受けながら、悟はゆっくりと名前のもとへと歩み寄って行った。








 名前は、悟に関しての記憶を綺麗さっぱり失っていた。名前の中から、悟がいなくなってしまったのだ。

 悟と二人きりでの想い出はまるでなく、数人での想い出には悟だけがいない。悟が抜けたことでどうやっても辻褄が合わなくなりそうな記憶に関しては、「曖昧に靄がかかった感じで、思い出せそうなのに思い出そうとすると頭の奥がめちゃくちゃ痛む」と名前は表現した。


「五条、どう思う。オマエのその目で何かわかるか?」
「……あとで話すよ。それよりさぁ」


 悟はくるっと名前を見て、にこにこと笑みを作ってみせた。努めて、努めて、努めて明るい声で話しかける。


「これまでの話と皆の反応でわかると思うけど、僕が名前の愛しの旦那さんってわけ。フフ、こんなナイスガイと結婚してただなんて嬉しい?」
「……うん」


 戸惑った顔。それなのに悟を傷つけてはいけないと無理やり笑顔を作った名前に、胸が抉られた。

 心臓を鋭利な刃物で滅多刺しにされたような、内蔵を素手で引っ掻き回されたような。耐え難い感覚だった。


「まぁそんな思い詰めないで! 僕がなんとかしてあげるよ。ね、何かのきっかけになるかもしれないしさ、これまでどおり一緒に暮らそうよ。最初は慣れないかもしれないし、名前にとっては知らない男がいる部屋ってことになっちゃうけど、今まで生活してきた場所だから居心地はいいと思うんだよね。名前のものも全部あるしさ、あとは」


 喋りすぎだ。
 自覚はあった。それでも止まらなかった。何かを喋っていないと押し潰されてしまいそうだった。


「あとはね、」
「ふふ、心配しなくてもちゃんと一緒に帰るよ。だってそこがわたしの家なんでしょ? ね、わたしはなんて呼んでたの?」
「……悟」


 これを、あと何度繰り返さなければならないのだろう。悟だけが知っていて名前が知らない過去を、何度なぞればいいのだろう。

 それだけでも地獄のようなのに、それをしたからといって名前の記憶が戻るわけではないのだ。過去を教えこんだって、それは名前と悟の過去を知る、別の名前なのではないか。

 そんなことを考えてしまう。

 名前は名前でしかないとわかっているはずなのに、心が追いつかないのだ。


「わかった。でも、悟はほんとにいいの? わたしと一緒に暮らして」
「ん? 何で?」
「だってさっきから」


 ──泣きそうな顔してるよ。


 そう言って、名前は悟の頬を撫でた。
 名前の体温だった。名前の、あたたかな体温だった。

 名前のほうが、ずっと辛く苦しいはずなのだ。それでも悟を気遣うその心に、変わらぬ名前が確かにいる。


「アハハ、名前だねぇ」
「うん?」
「ううん、なんでもない。それに僕は全然ダイジョーブ! さ、一緒に帰ろ、僕たちのうちに」







 名前が放った「ただいま」は、語尾が上擦った疑問系だった。恐る恐る家の中に入る後ろ姿が可愛い。
 部屋の扉と間違えてトイレの扉をそろりそろりと開ける名前に後ろから「わっっっ!」と大声をかける。などという小学生のような悪戯をして、名前にしこたま怒られた。

 大丈夫。笑えてる。大丈夫だ。

 ひと通り家の説明をして、「今日は疲れたでしょ。ご飯は僕が作るから、先にお風呂入っておいでよ」と名前を浴室に案内する。

 浴室の扉を閉めて、そのまま。扉をずるずると伝いながら、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。魂ごと抜け落ちそうな深い吐息が落ちる。

 知らぬ男との生活を強要された名前は、幸せなのか。悟を忘れただけで、その他のことは何ら変わりない。別に、生きていくには何も困らない。

 ──“わたしの、世界のすべてだよ”

 悟をこう言ってくれた名前が、悟なしでも生きていける世界になってしまった。

 悟が。
 ただ、悟一人が困るだけだ。


「こんなの、どうすりゃいいんだよ……」


 その呟きはシャワーの音に紛れて、寂しく落ちた。

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