きみの破片が心臓に刺さる
立ち込めた暗雲の細い隙間から、満月の上縁が覗く。そこから一条伸びた光が辿り着いた先で、悟は地面にじっと視線を落としていた。
「……見つけた」
落ちた言葉はたったの四音。
それでもその声には自分でも一拍間を取ってしまうような、どす黒い感情が渦巻いていた。月の光を浴びて放つには些か重々しい。
「それにしても、やっと尻尾掴んだと思ったら、あちこちに囮みたいに残穢が散らされてるな。しかもそのどれもが巧妙に隠蔽されてる……まぁ、見つけた以上本元に辿り着くのも時間の問題だけど」
それでも一つ一つの残穢を虱潰しにあたらねばならぬという行程は、悟を苛つかせるには十分だった。
舌打ちをしてから膝を折り、地面にそっと触れる。忌々しい残穢を掬うように掌を返し、爪が食い込むほど強く握る。
「さて。地獄へのカウントダウンだ」
数多ばら撒かれた敵の痕跡を辿り始め、呟く。それが合図となったように雲が閉じ、月が翳る。重く降りた曇天の鬱々とした闇がより一層濃くなった。
「……アッハッハッ! マジィ? あんだけダミーの残穢ばら撒いて滅茶クソ結界張って隠れてんのに、こんな早く見つかんのォ? 結界も一瞬で破られるし。最強の名は伊達じゃないってか」
名前の任務先から遥か遠く離れた暗黒街の、崩れそうに古びた階段を下っていった先。犇めくように入り乱れる建物の隙間、触れるだけで外れそうな扉を設えた廃屋に、その男はいた。
呪詛師だった。
振り向いた男は人間の顔。感じる呪力も人間のもの。こんなに底質な笑みを浮かべる、分類してみれば低級になるのであろう呪詛師に、こうも良いように振り回されたことが。
ただただ忌々しい。
「あっ待って待って、俺に近づかない方いいよ? あの子を死なせたくないならね。つーか近付かれたらそのトンデモない呪力に俺潰れちゃいそー」
「……ペラペラとよく喋る」
「よく言われるー。アンタもヘラヘラとよく喋るヤツだって聞いてたけど、なーんか違ったね。超怖ぇじゃん」
「誰に」
「え? 何?」
「誰に聞いたんだって聞いてんだよ。首謀者は誰だっつってんの」
「……ワォ、スッゲー圧。でも言えないよ、そういう縛りだから」
ミシリ。廃屋の壁が不穏な音を立てる。無論、悟の放つ呪力に軋まされているせいだ。
「あっちょっとちょっと、近付かない方いいよっつったじゃん。あのねェ、俺がこの指をこう『パチン!』ってすれば、あの子の心臓は簡単におじゃんになるわけ。俺のことは丁重に扱ってほし──ッ!!!」
メキ。ボキ。ミチ。
骨と軟部組織が捻り上げられる形容し難い音が鼓膜に障る。
それと同時に男の顔が声にならない苦痛に歪み、その直後にはねじ切れそうな短い悲鳴が部屋を満たした。
悟の眼前では、四方八方からの目に見えぬ力に潰され捻りあげられた両手を抱える男が蹲っていた。
見下ろす悟の碧眼には、何の感情も浮かんでいない。
「僕の前に姿を晒した時点でオマエは詰みだよ。……その汚い手で触れることが術式発動の条件で、指を鳴らすことだけが心臓のトリガーになるっつーのも本当なんだろ。で、オマエを殺せば術式は解ける」
ヒトとして有り得ぬ体裁の腕を庇いながら立ち上がった男は、首をコキコキと左右に傾げながら言う。
「ッア〜〜〜〜痛ッて〜〜〜俺の指もう使い物になんないじゃん、こんな捻れちゃって。つーかその眼ほんと凄いね、だいたい何でも分かっちゃうんだ。ハハハッ」
「……何が目的だ」
「べっつにィー。目的なんてないよ。最強の男にこんな情けない顔させられるなんて最高に唆るじゃん? 俺、別に生死に頓着はしてないし、楽しければ何でもいいなーって」
聞くだけ無駄の典型である。返答はあるのにまるで的を射ておらず、寧ろ苛立ちが募るばかりだ。
知る限りの拷問を行おうかとも考えたが、この手の酔狂な人種に堪えるとも思えなかった。それよりも、さっさと殺してしまったほうがその分早く名前の記憶を取り戻すことができるのなら、その方がよっぽど有用だ。
というか、そんなに悠長に構えていられるほどの余裕も持っていない。
名前をここまで苦しめた男を前にして、首謀者や目的が判明するまで名前の艱苦を長引かせることができるほど悟は出来た人間ではないし、そもそもそれを“出来た人間”と言うのであれば、そんなものには一生なりたくないと思う。
何れにしても最終的な狙いが悟であることは変わりがないのだから。
というわけで、だ。
あらん限りの憎悪と呪いをこめて殺してやろうと、男に向かって右手を伸ばした、その時だ。
「クク、ックックック」
「何がおかしい」
「いや、その眼も全部が見通せるわけじゃないんだね。ねェ、ホントに殺しちゃっていいの? 俺の術式が解けたらさァ、それで終わりだと思う?」
ぴくり。悟の眉が微かに動く。
「……何?」
「だーかーらー、俺を殺すって方法で術式を解いたらさァ、あの子がアンタを思い出すだけで済むと思ってんのかって聞いてんの」
──はったりだ。
そう切り捨て、さっさと殺してしまえばいい。実際、続いた男の言葉を聞いたとき、さっさと殺してしまえばよかったと思った。
しかしこの時は行動に移すことができなかった。躊躇してしまった。
「記憶が戻る代わりに、戻った記憶以外の全部を忘れるっつったらどーする?」
「な……」
「どーお? その眼で今のが嘘かホントか分かる? ……ククッ、アハハハその顔最高! ハハハハハッ!」
ほら。聞かなければよかった。
どうせはったりに決まっているのだ。それなのに、迷いが生じてしまうではないか。なぜなら悟の六眼でも、百有れば百全てを理解することは出来ないから。
否、そうだとしてもそんな都合の良い術式があってたまるか。そう思いたいのだが、術者の命と引き換えにするという条件であれば、その付与効果も有り得なくはない。
──どうする。
もし、と考えてみる。
もし、男の言うことが真実であるとするならば。悟を思い出す代わりに、悟以外の全てを忘れてしまうのだとするならば。
そんなの。名前にはあまりにも辛い。惨すぎる。
両親の愛も、硝子や七海と過ごした日々も。名前を形成してきた悟以外の思い出すべてを忘れるなど。
そんなことは出来ない。出来るはずがない。そう瞬時に答えを出せるのに、なのに。
名前が悟を思い出す。
そのことが現実味を帯びた瞬間、何を捨ててでもそれを手にしたいと思っている自分がいることもまた、事実だ。
──“例えこのまま記憶が戻らなくて、名前が僕と生きない未来を選んだって、名前を想って生きていくよ”
嘘などではない。心の底からそう思っている。それでも悟を思い出す未来が目の前に差し出された途端、この様だ。
「……いや、はったりでしょ」
「クク、ホントにィ? それでいいの? 自信持って言い切れてないんじゃない? 俺の言ってることがホントだったらどーすんの。あの子に一生恨まれて生きてくの? ハハハッそれはそれで見物だけどね」
「黙れ」
「フッフフ、どーすんのォ? 殺す? 拷問でもしてみる? まぁ俺が自分から術式解くことは絶対ないし、縛りがあるから自白しようとしたところで死ぬんだけど」
「そんなことわかってんだよ。僕は黙れって言ってんだ」
「まぁ聞きなよ。つまりさァ、俺を今ここで殺すか、甚振って殺すか、現状を最良として生かすかのどれかだよ。アンタに選べるかなァ、フフ」
殺してやりたい。
これ程の殺意が漲るのは久方振りだ。その殺意を衒いなく向けられたらどんなによかったかと思うが、それが出来ない。本当だったらどうする。いや、嘘に決まっている。でも、万が一。いいや大丈夫だ。
嘲笑うような粘りつく笑い声が耳に障る。へらへらした笑みで目が腐りそうだ。
──殺してやりたい。
「あ、殺すんだ? そっか、自分との思い出を取るってわけ。自分のことさえ思い出してくれれば、その他はどーでもいいってわけ。フハハハハッいいねェいいねェ! それこそエゴに塗れた汚い人間ってカンジ!!!!!」
「いい加減黙れよ。つーか最期の言葉も品がないね。流石だ」
「フフ、コッチはアンタのそんな顔が見れて最高の気分だよ、アハッ、ハハハ───…」
命の終わりに似つかわしくない断末魔が、今にもひしゃげそうな廃屋に轟いた。
「名前ー、たっだいまー」
「っ悟」
「おっと」
玄関の扉を開けるやいなや、名前が物凄い勢いで跳びかかってきた。受け止めるのが呪術師頂点の悟であるから、それは、名前が抱きついてきたという表現に訂正されるわけだが。
その頭を撫でながら、もう一度告げる。
「ただいま、名前」
「おか、っおかえ、」
「アハハ、喋れてないよ」
腕の中でぼったぼったと涙を落とす名前を、きつく抱きしめる。
名前だ。間違えるはずなどない。
今、悟の腕の中にいるのは、出逢った頃からの悟を知る名前だ。
「悟、わたし……っ」
「いーよ、何も言わなくて」
「っ、ふ……ぅ」
嗚咽を落とす名前を抱き上げた悟の背中は、ゆっくりとリビングに溶けていった。
⁑
「まぁ、こんなものかな」
麻雀牌が軽やかに鳴る。
雀卓を囲む面々それぞれが、声の主を見遣った。
「もともと計画の前の余興みたいなもんだったし、精神的な揺さぶりを掛けたところで悟をどうこうできるとは思っていなかったからね。それでも面白いものが見れたな。……ね、悟、名前」
そう言って嗤った男の額には、複数の縫い跡が浮かんでいた。
【きみの破片が心臓に刺さる】終