あなたって暗闇ね
天高く馬肥ゆる。
そんな秋の、晴れた日のことだった。巻雲が極薄く覆う青空の下、縁側の一角で悟ははたりと足を止めた。
「何? このガキ」
「まぁ悟坊ちゃんったら、またそんな口利いて。坊ちゃんだってお小さくてらっしゃるじゃないですか。どんなにお強くてもまだ八つなんですから」
ガキだなんて、一体そんな言葉どこで覚えてくるんですかね。と使用人の一人である女──名を千代と言った──は笑った。
千代の後ろ、大腿に纏わり付くようにしながらもじもじと顔だけを覗かせている少女を、悟はまっすぐに指差した。
「ガキはガキだろ。で、何コイツ」
「私の娘にございますよ」
「娘……? オマエこの家にずっと前から住み込みじゃん。腹でかくなったの見たことないんだけど」
「あら、よく見てらっしゃいますね、さすがです。……実は私の妹の子なんですけどね。事情があって、私が引き取ることになったんです。だから、今日から私の娘なんです」
少女の右目の周囲にはぶす色の痣。眼瞼が腫れているせいで瞳は半分も見えなかった。左頬には白い湿布。こちらも同じく腫れていた。
どういった事情かは知らぬが、顔という人目につく部位にさえ及んだこの痕が原因であることは、火を見るより明らかだった。
「……あっそ」
「旦那様が、この子もここに置いて良いと仰ってくださいました。まだまだ未熟ですが、私と一緒に坊ちゃんの身の回りのことをさせていただきますね」
「だーかーらー、いらないっつってんじゃん。自分のことくらい全部自分でできるっつーの」
「ふふ。存じておりますが、どうかそう仰らずに。ほら、名前、ご挨拶なさい」
名前、と呼ばれた少女は、女の着物をきつく握り、やはりもじもじと上目遣いに悟を見上げた。
まどろっこしいその所作に、苛つく。
「え、っと……名前と申します。どうぞよろ、よろしく、ね」
「名前。よろしくお願い致します、よ」
「あっ、そうだった。お願いいたします、……悟様」
ぴょこりとぎこちなく下げられた頭。
悟より二つは下であろう名前の、そのちいさな旋毛に悟は言い放つ。
「挨拶もロクにできねぇヤツに俺の世話なんかできっかよ」
「……っ、ごめんなさい。も、もう間違えません!」
ぱっと上がった名前の表情は酷く怯えていて、何故だか無性に苛立った。捨て犬のようなその双眸を、悟は無表情に見下ろす。
常に人の顔色を伺いながら、怯えながら、息を潜めるように生きてきたのだろうと思う。
悟よりも、ちいさいのに。
「……オマエなんて俺の下僕くらいがちょうどいーよ。俺の言うことだけ聞いてればいい。そんな下手な敬語も使うな」
「え……」
「返事は?」
「あっ、はい、ありがとうございます!」
「敬語いらねーっつってんじゃん」
「え、でも……」
名前は困惑しきった眼差しで、このやり取りを見守っていた千代を見上げた。悟もじいっと千代を見つめる。千代もその意図を図るように、それぞれの瞳を丹念に見つめ返した。
「……悟坊ちゃんがそう仰ってくださるのなら、そうなさい。ただし今だけよ。うんと勉強して、しっかりと坊ちゃんのお役に立てるよう精進なさいね」
「……うん!」
千代から視線を外した名前が、悟をまっすぐに見据える。
「悟様! ありがとう!」
ぱあっと明るく華やいだその表情は、右目の痣も左頬の腫脹も霞むほどの眩しさで、悟は束の間言葉を失った。
「……なんだよ。どんな辛気臭いヤツかと思ったら、そんな顔もできんじゃん」
「?」
「なんでもねぇよ。ほら来い、下僕の仕事教えてやっから」
「うん!」
てとてとと小走りで悟を追う名前の後ろ姿を、千代は涙を浮かべながら見送っていた。
千代の耳に、妹の言葉が蘇る。
──“姉さん。ごめん。このままだと私達、名前を殺しちゃうかもしれない。止められないの。ごめん。…………助けて”
久方ぶりに聞いた妹の声は、快活だったはずのその声は、嗚咽に塗れてぼろぼろだった。
由緒ある家に嫁ぎ、名前を産んで、幸せに暮らしていると思っていた。互いに忙しく、会う機会もなかった。妹のその変貌に気づくことができなかった。
妹の、最期のSOSだった。
痛々しく、あまりに惨い。
愛のかわりに与えられ続けた暴悪により目も当てられぬ有様だった名前をこの手で抱きしめた時、千代は、一生かけてこの子を護ろうと決めたのだ。
その瞳を曇らせることなく懸命に生きてきた名前を、幸せにしようと誓ったのだ。