あなたって暗闇ね


「悟様ー! さっきのお客さんからもらった羊羹とってもおいしそうだよー! 食べる?」
「食う」
「そう思って切ってきた! お茶もあるよ!」
「やればできんじゃん」
「ふふ」
「で、いつまでそこにいんの? 早く入れば」


 待てども待てども開かぬ襖に、痺れを切らした悟が言う。


「ごめん悟様、開けて開けてー! 両手塞がってて開けられないの!」
「……オマエはほんと、褒めた途端これだよ」
「へへ、ごめんなさい」


 スパン。襖が勢いよく開く。唇を些か不機嫌に結んだ悟が、お行儀悪く足で襖を開けていた。

 名前の両の手が抱える円形の盆には、金箔の混ざった木目の細かな羊羹と、微かに湯気の立つ番茶が乗っていた。


「茶淹れれるようになったじゃん」
「うん。火傷しなくなった。ね、食べて食べて」


 意外と均等に切り分けられている羊羹を楊枝で口に運ぶ。美味い。間を置かず二切れ目へと手を伸ばした悟を、名前は正座をしながらにこにこと見守っていた。


「……名前、ちょいアレ見てみ」
「? アレって?」
「アレだよ、そこのやつ」


 悟が示した方向を素直に見遣った名前が、どれ?と首を傾げる。


「もっと上だよ、ほらアレ」
「え?」


 名前には癖があった。
 上を向くとき──あの雲は鯛焼きみたいだね、とか、軒先から滴る水滴が唄ってるみたい、とか、名前は何かにつけてよく上を向く──に、ぽかりと口が開くのだ。

 今回も例に違わず開いたそこに、悟は羊羹を放り込んだ。


「んむっ……?!」
「ハハッ、間抜け面」


 両手で口元を抑えた名前は、驚きと困惑の面持ちで悟を見た。


「もぐ、んむむ!(だ、だめだよ悟様……! わたしたちは食べちゃだめって言われてるのに!)」
「俺が無理やりやったんだからいーじゃん別に。さっさと噛めよ。今更口から出すわけにもいかないだろ」


 悟の言葉に、名前の表情が「それもそーか」と告げる。暫し逡巡したのち、遠慮がちに咀嚼を始めた。徐々に表情が明るくなっていく。


「……すごくおいしい! こんなに美味しいの初めて食べた!」
「そーかよ」


 嬉しそうに綻んだ口に、もう一切れ放り込む。どこか、胸のあたりがほくりと温度を持った気がした。







「悟様。お花が咲いてるよ」
「あ?」
「ほら、あそこにたくさん」
「んなのどこにでも咲いてんだろ」
「そうなの? わたし初めて見た」
「……はぁ?」


 いつまでも家柄に縋ったような、形式だけの会合の帰路だった。
 愛想笑い。見え透いた世辞。拱く手。会合は終始息が詰まった。だからか、なんとなく外を歩きたい気分だった。

 故に悟は、社会勉強と銘打って付いてきていた名前だけを隣に置き──それ以外のお付きの大人は悟の半径二十メートル以内に近づくことを禁止された──、川原を歩いていた。

 秋桜、だった。

 秋晴れの下、川原に咲く秋桜の群れ。それを指差し、名前は「なんていう花なの?」と首を傾げる。


「……秋桜」
「こすもす?」


 名前の“秋桜”はまだ意味を持たぬ響きだった。言葉を覚えていく幼子のそれと同じだ。


「オマエ、秋桜も見たことねぇの」
「うん。今までほとんどお外に出たことなかったの。だから今、毎日楽しいんだ」


 そう告げる名前は、どこか寂しそうに笑った。名前は自身の境遇をどこまで理解し、どのように享受しているのだろうか。

 少し、気になった。

 三秒ほど考えてから、悟は「仕方ねぇな」と名前の手を引き、秋桜へと近づいた。ぷつりともいだ一輪を手に取り、名前に手渡す。


「語源は宇宙っつー意味のコスモス。漢字で書くと秋桜あきざくらだな。花言葉は、乙女の真心」
「すごい……普通の人は知ってることなの?」
「さあね」


 悟の言葉をきょとんと受け止めてから、名前は手渡された秋桜へ視線を落した。

 後日、悟が渡した一輪を押し花にして額縁に飾っているのだと、千代から聞いた。







「わたしの母様はね、心の病気なんだって。だからわたしが邪魔だし、それがうつっちゃった父様も、わたしをぶたなきゃ生きていけないんだって。そう言ってた」


 名前が五条家に来てから小半年が過ぎようとしていた。

 庭先に薄らと積もった雪。
 それらをさくさくと足裏で踏み鳴らしながら、名前は突然そう口にした。名前の口から家族の話を聞くのは、これが初めてだった。


「毎日いろんなところが痛かったけど、でもね、夜遅くになると絶対『今日はごめんね』って抱きしめてくれたの。病気だから仕方がないの。だから、わたしも頑張ろうって」
「……」
「今は病気が悪くなっちゃって、一緒には暮らせないんだって。それで、千代ちゃんがお迎えに来てくれたの」


 妹の、ようだった。
 名前との関係に名前をつけろと言われたら、悟はそう思っただろう。

 無垢に駆け寄るその姿。疑うことを知らぬ瞳で、悟の姿に全幅の信頼を見る。よく笑い、よく泣き、いつも悟のあとを追う。

 名前の身に何かが振りかかれば、きっと咄嗟に庇ってしまうような。

 悟にとって、妹のようだった。


「ね、悟様。毎日優しくしてくれてありがとう! これね、クリスマスプレゼントなの。まだひとりで上手にできなくて、千代ちゃんに教えてもらいながらやったんだけど、その」


 背に隠していた──悟の位置からは丸見えでまったく隠れてはいなかったのだが──小包を、名前はおずおずと差し出した。

 この場で開けて欲しそうな雰囲気を察知し、包を開く。悟の手中に出てきたのは、手編みと思しき襟巻きだった。


「お着物にも合うような色をね、選んでもらったの。ずっと風邪ひきませんようにってお願いしたんだよ」
「オマエがコレを? ……すげぇじゃん」


 世辞でも何でもなく、本心だった。そのちいさな手でこれを編み上げるのに、一体どれほどの時間と努力を要したことだろう。


「ねえねえ、わたしが巻いてみてもいい?」
「いーけど」
「やった!」


 悟の首にふわりと巻いた襟巻きに手をかけたまま、「似合う!」と名前は心底嬉しそうに笑った。


 こうして、ずっと。
 阿呆みたいな顔でずっと笑ってりゃいーのにと、思った。

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