狐火ロンド
翌朝、冷蔵庫を物色し「サム〜〜〜俺の分も朝飯作ってぇな〜〜」と甘えた声を出す侑の姿がキッチンにあった。
「自分で用意せぇよ。あと泊まっとる間の食費は後日請求するからな」
「え、ケチくさ!」
「お前、自分がどんだけ食う思てんねん。せや、悪口言うたびに居候代一割ずつ増やしたることにするわ」
「スンマセンシタァッ!」
そんな会話に笑いながら、名前は三人分の味噌汁をよそっていた。それを見た侑がぱあっと顔を明るくして席に着く。
「侑、お箸並べておいてね」
「おう、そんくらいはすんで」
「ありがと。ね、そういえばさ、家出したところでどうせチーム練で木兎くんに会うんでしょ? どうするの?」
一度、そして二度。
名前の問いにゆっくりと瞬いてから、侑は大きな溜め息を落とす。
「ぼっくんな〜〜アホやねん。きっと俺が家出しとることにも気ィついとらんで。いいとこ『ツムツム、よく分かんないけど拗ねて飛び出しちゃった〜! けどまあ一日寝れば帰ってくるだろ!』くらいやと思うで」
「えぇ⋯⋯? せっかく(?)家出したのに⋯⋯それ家出した意味ある? 木兎くんに直してもらいたくて出てきたんじゃないの?」
木兎は、良くも悪くも単純で単細胞である。婉曲とか、察するとか、そういうものとは対極に位置していると思う。単刀直入に。端的に。そうして向き合うべき相手なはずだ。
しかしこんなことは、同チームかつルームメイトの侑こそが重々承知しているだろうに。
侑の態度はまるで、何かを諦めてしまったかのようだ。
「直らんよ。直せるもんなら直して欲しいけど、なんぼ言うたかて響かんし、アレは本能やもんな。腹減ったから目の前にあるもん食ってまうって。理性でどうこう出来る領域やあらへん。せやから出てきたんやもん」
「え⋯⋯もしかしてほんとに帰らないつもりなの?」
「え、ホンマやないと思われてたん?」
双方の発言に、皆、くりりとまるく目を見開いていた。
名前も治も、侑の家出は衝動的なものだと思っていた。数日経てばけろっと機嫌を直して帰るだろうと。しかしどうだろう。まさかこんなに本気だとは。余程食べ物の恨みは深いということなのか。或いはここでは言葉にしていないが、こういった小さな齟齬が重なりに重なって、共同生活がもう限界だったのか。
「帰らんよ。ま、落ち着いたら新しい家でも探そかな。寮は嫌やしなぁ」
「⋯⋯本気なんやったら落ち着く前に探してや」
一拍置いて冷静に返した治と顔を見合わせる。「思っとったよりずっとマジなやつやったな」「うん⋯⋯」と、声なき会話が交わされた。
「ほな行ってくるわ〜」
「行ってらっしゃい。怪我しないでね」
「おん⋯⋯って、あれ? 名前ちゃん、行ってらっしゃいのチューまだやで?」
何でしてくれないん?
と、心の底から思っていそうな侑の顔面に、治の手のひらがめり込んだことは言うまでもない。
*
「ちょお、名前ちゃんウルサイわあ」
「? 洗濯物はちゃんとカゴに入れてねって言っただけだよ?」
侑が寝床──というか最早小振りな部屋と化してきているが──にしているソファの傍らに落ちていた、明らかに脱いだばかりっぽい靴下を拾い上げながら、名前は言ったのだ。
洗濯物はちゃんとカゴに入れてね、と。
別に、ひっくり返った靴下は直してから入れろとか、ネットに入れて欲しいものは自分で入れておけとか、色物は分けてほしいとか、そういうことを言ったわけではない。
本当に、本当に最低限のことだと思う。
現に拾い上げた靴下がひっくり返っていたことには目を瞑ったのに。
だから不思議に思う。侑には一体何をうるさがられたのだろうかと。首を捻る名前に向かって、侑はしれっとこう述べた。
「それ言われること自体がウルサイ言うてんねや。オカンかって」
「おか⋯⋯」
名前はフリーズした。
自分の中で生活する上で「当たり前」と思っていたこと──しかも自分なりには結構譲歩した──を伝えたら、「まるで母親のようにうるさくて煩わしい」ときたのだ。
衝撃、困惑。そして遅れてふつりふつりと沸き起こってくるこの感情は、怒りだろうか。
名前の生活テリトリーに一方的に入ってきたのは侑のくせに。なぜそんな物言いができるのだろう。腹も立つというものである。
「うるさいって⋯⋯でもわたしの家だし、最低限の⋯⋯っていうかわたしは! お母さんじゃありません!」
「えー、何やのぷりぷりせんといて。ただのジョーダンやん。冗談の通じひん子ぉは嫌われるで」
スマホを弄りながら名前の方も見ず面倒そうに告げる侑の態度に、名前の堪忍袋の尾が切れた。
「⋯⋯っ侑の馬鹿!!!」
名前が拾い上げ、そのまま手に持っていた侑の靴下を、顔面めがけて投げつけていた。それはそれは力いっぱいに。ものすごい勢いで宙を駆けたそれは見事にクリーンヒットし、侑の顔面に一足仲良く張り付いた。
*
「⋯⋯ってなカンジで部屋から出てこんくなってもーたわ。どないしよ。洗濯物もそのまんまやし、晩飯もまだやのに。腹減ったぁ」
と、帰ってくるなり侑から聞かされた治は、間髪入れずに侑の脳天に手刀を落としていた。
「痛⋯⋯ったいやろが何すんねん!」
「俺の彼女虐めるからやアホボケカス」
アホ、ボケ、カス。
一息に罵られ、流石の侑も肩を竦めてみせる。
「めっちゃ言うやん」
「大事な彼女やからな」
「ふ〜〜〜ん」
「何やねん」
「お前もそんなに人のこと好きになることあるんやなぁて思て」
「⋯⋯まぁ、ツムより人の心持ってるしな」
「は? 俺かて持ってるし」
「あそ」
人の心あるヤツの振る舞いとちゃうけどな。そう口から出かけたが、なんだか面倒になってしまい「あっそ」に置き換える。
「つーか人のこと傷付けといて冗談で済まそうとすんなや、小学生か」
「誂っただけやもん。よぉ働くなあ思て」
「名前はよぉ働くよ。けどお前はそれをウルサイ言うたんやろ」
「だって俺、ちゃんとした生活強制されんのイヤやねん」
「⋯⋯早よ出てけやアホンダラ。お前は木兎くんと居るんが合うとるわ」
吐き捨てるようにそう言ってから、治はキッチンへと向かった。そのあとを「あっ、飯作るん!? はよ頼むで、腹ペコや」と、名前の心情など歯牙にもかけていなさそうな侑が追ってくる。
治は今日一番の冷めた瞳でピシャリと返した。
「名前にちゃんと謝るまでツムにやる飯は米粒ひとつないからな」
コンコン。普段通りの調子のノックが、寝室の戸を揺らす。名前が籠もっている寝室だ。
「名前」
「⋯⋯」
「名前。入ってもええ?」
「⋯⋯」
「晩飯食うてないんやろ。ほれ、持ってきたで」
きぃ、と扉が開いて。
ベッドの隅で膝を抱え、うじうじと指先を弄っている名前が、じとっと治を見上げた。
「⋯⋯おかえり」
「フ、ただいま」
こんな時でもきちんとおかえりを口にする名前に微笑んで、治はベッドサイドテーブルにお盆を置く。途端、名前の鼻腔が擽られる。
いい匂いだ。すごく。
おにぎりに、卵焼きとウインナー。治の作ってくれる食事の匂いだ。くう、とちいさな音を出した胃のあたりを軽くさすってから、名前はぽつりと零す。
「⋯⋯治もお母さんみたいって思う? わたし、口うるさい?」
「あほ。んなわけあるかい。しょーもないこと聞くなや」
「⋯⋯侑が、冗談の通じない子は嫌われるって。わたしノリ悪いから」
「アイツそんなことも言うたん。許せへんな。あとでもう一発くらわしとくわ」
ギシ、と軋むベッド。膝を抱えたままの名前が居座るベッドに、治が腰を下ろす。
「あんな、人が嫌がること言っといてそんな台詞ぬかす奴は想像力の欠片もない可哀想なヤツやねん。冗談だとかノリだとかな、そういう話とちゃうやろ。傷付けられた側の問題みたいにされるんおかしすぎるわ。せやから名前はそのまんまでおったらええよ」
「⋯⋯治」
「ちなみにノリ悪いて思たことはいっぺんもないで」
穏やかな治の言葉に、名前はもぞもぞと近づいていく。程なくして横に並び、ぴたりと身体をくっつけた名前の頭をくしゃくしゃと撫でてから、治は軽く首を傾げた。
「食う?」
「うん」
素直に頷いていた。あんなにどんよりと沈んでいた気持ちが、あっという間に晴れている。あたたかいおにぎりを手に取り一口齧る。「おいし〜〜〜」と、勝手に笑顔が溢れていた。
「うん。笑っとって」
満足そうに目元を和らげた治が眺めるなか、名前はあっという間に完食した。意地を張って引き籠もっていたものだから、腹ぺこだったのだ。丁寧に両手を合わせる。
「ご馳走さまでした。美味しかったぁ。ありがとう、治」
「元気出た?」
「出た!」
「よかった。あんなヤツのせいでいつまでもいじけとったら、無理矢理元気にしてまうとこやったで」
「?」
「こんなふうにして」
「きゃ⋯⋯っ、んぅ」
二人がベッドになだれ込んだのと時を同じくして、リビングで空腹のまま拗ねていた侑がハッと顔を上げた。
「あーッ!? さてはアイツらイチャコラしてんな!? そんな気配や!」
【02 侑のバカ!】