地球との恋の紡ぎかた


 たったひと夏だった。

 短い、ひと夏だった。


『ひとの記憶に残るのはね、徹が思ってるよりずっとずっと、ちっちゃなことだとおもうな』


 ちりん。

 どこか遠いところで。
 あの夏の、音がする。

 嫌というほどに澄んでいて、嫌というほどに美しくて。嫌というほどに、──哀しいおと。


『そう?』
『わたしたちはね、どんなに願ったって、生きてくために忘れてく生き物で、いつかには忘れたっていう事実すら、忘れちゃったりするけれど』
『うん』
『でもね、簡単に忘れられる生き物でも、ないんだよ』


 ──よく、晴れた朝だった。
 恨めしいくらい眩しい朝陽に。ふと目を醒ますと、なんとも珍しいことに、隣にいるはずの体温がいなかった。かわりに聴こえた、鳥のさえずりに調和した、夏に似合う弾けた笑い声。


(……外、……にいる? ……また、絵でも描いてんのかな)


 覚醒しきってない意識の中。彼女の楽しげな声が響く。しあわせな朝だった。しばらくその声に浸ってから身体を起こして、窓を開けた。

 アパートの前に並ぶプランター。注ぐ陽光。ホースを持つ彼女。煌めく飛沫。水幕に映る七色。


『すげえ、名前ねえちゃんじょうずー!』
『へへっ』
『ねえもっとやって! もっと!』

(……子ども?)


 笑い声の正体。夏休みの風物詩である、早朝の体操に向かう子どもたちと。水遣りホースが描く水の放物線で、虹を作って遊んでるらしかった。

 その微笑ましい光景を、俺は窓辺に頬づえついて、しばらく眺めてた。


(ははっ、名前さん、ちびっ子よりはしゃいでる)

(うわ、またあんなに濡れて)

(……え、ちょっとまってなにその技、超楽しそうじゃん俺も行く!)


 ちゃんと最低限の衣類を纏ってることを確認して、玄関を飛び出た。

 朝陽の粒。爽やかな空気。駆け下りる階段。この時はカンカンと鳴る階段の音すら、生きて浮かぶ、光みたいだった。

 駆け下りた勢いのまま。人目も憚らず、後ろから抱きしめた。


『名前さんおはよ』
『わ、徹?! びっくりした、おはよー』


 耳元で、とびきり甘く囁いた。身を捩って見上げてくる彼女。その瞼に落とすキス。子どもが見てるのにとか、教育によくないとか。そんなことは、考えてなかった。

 珍しいじゃん、なんで今日早起きなの? そう問おうと口を開いた矢先、しかし幼い声が上がる方が僅かに早かった。


『なんかデカイの来た! だれだ?! ヘンシツシャか?!』
『変質者?! 誰が?! 及川さんが?!』
『他にだれもいないじゃん! ぼくたちのねえちゃんから離れろ!』
『わお、生意気! やだねー! そもそも俺の名前さんだもんねー!』
『ちがうやい! ぼくたちのねえちゃんだもん!』
『なんだと?!』


 ちりん。

 ここより空に近い場所。窓辺の、風鈴が鳴った。今でも不意に鳴る音だ。耳の奥で、頭の奥で。あの夏と変わらずに鳴り響く。

 その音に気を取られた一瞬。ホースが向けられたと気付いた時には、もう遅かった。


『っぶ?!?!』
『もー、仲よくしないと水かけちゃうよ?』
『かけてる! もうかけてるよ名前さん! しかも俺だけ!』
『だって今のは徹が大人げないです』
『んぐ』


 子どもたちの屈託のない笑い声が、前髪から滴る水滴にかかった。ぽたんと一滴。次の瞬間には、俺も、名前さんも笑い出してた。

 彼女は、みんなの優しい笑顔を作るのが、とても上手なひとだった。

 そのあと散々じゃれあって、プランターに植えられてたミニトマトをひと粒ずつ食べて。小さな彼らを送り出した、そんな朝だった。

 太陽が眩しかったのか。
 彼女が眩しかったのか。

 判然としない、そんな朝だ。先程の言葉を、彼女が呟いたのは。

 なんでこんな話題になったのかはもう、忘れちゃった。けど、この時の彼女の言葉は、一言一句覚えてる。


『ちっちゃなことって……例えば今みたいなこととか?』
『ふふっ、徹の記憶には、……どんなことがひっかかるのかな』


 俺の前に明確な「別れ」が顔を出していない頃のことだった。だからこの話題に、特別食いついてもいなかった。それなのに覚えてる。

 そう。

 この話をしててなお、俺たちは自身に、忘れないと誓い合った。


 でも俺は、どこか悟った気になってたんだ。


 どんなに強く願ったって、この夏はいつしか記憶の奥底に沈みこんで。思い出そうとすれば思い出せるけど、思い出そうとしなければ、──永遠に思い出せない。そんな思い出になってしまうと。

 そう、思ってた。

 実際に、否が応にも霞んでゆく輪郭。薄くなる香り。膜がかかっていく声。あんなに愛おしかった彼女の細部はもう、ぼやけてしまった。

 でも、でもね。違ったんだ。
 彼女の言ってた通りだった。

 俺の、俺たちの記憶にひっかかって、ふとした時に胸をぐりりと抉ってくるのは、酷く些細なことなんだと。あの日以来、嫌というほどに味わってきた。

 子どもたちの笑い声。お味噌汁のにおい。弾ける朝陽。そよぐ微風、なびく風鈴。なんでもない日常の不意の瞬間に、ぼやけてしまったあの日々がちらつく。

 彼女とともに在った刹那が脳裏にちらついては、俺のこころを掻き乱す。それは、あたたかくて、苦しくて。

 無性に泣きたくなる時間だった。

 そんな、思い出すら気紛れな彼女のことを。


 俺は、今でも。

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