さよならの指先
【名前、準備は?】
【うん、もう行けるよ!】
【よっしゃ】
その吹き出しを確認して、アプリを閉じる。ホーム画面に戻ると、あの日に撮ったみんなの笑顔が、変わらずに仲よく並んでいた。
『ほら、泣いてないで笑って!』
『右側もっと詰めろはみ出てんぞ!』
『押すなよ! 押すなよ?! あー! 押すなって!』
もう遠い、あの日の声が聞こえる。
その笑顔を人差し指でそっとひと撫でしてから、画面を消す。使い慣れた鞄の内ポケットにスマホを仕舞いこんだ。
「行ってくるねー!」
軽快に階段を降り、玄関から居間に向って告げてみる。ほどなくしてぴょこと顔が覗いた。
「帰りは?」
「寄ってくる、かな、たぶん」
「あらまあ、いいわねえ」
にこにこと、いつもの微笑みを湛えている。
三年間、毎日お弁当を作ってくれたお母さん。ベッドでぐずるわたしを根気強く起こして、「今日行きたくないよー」と、なおもぐずるわたしに、天使のような笑顔でこういうのだ。
『でも今日のだし巻きは会心の出来よ?』
『っえ』
『一緒にのんびりできるから、名前が休むのはむしろお母さん嬉しいんだけどね、』
『お母さんってたまに結構たくましいよね』
『学校行かないなら、お弁当はお母さんが食べちゃうわね』
『ごめんなさい超食べたいです行ってきます!』
小さい頃から、長期出張や単身赴任が多かったお父さん。この家には、わたしとお母さんでいることがほとんどだった。
母であり、姉のようでもあり、親友のようでもあり、でもやっぱり母であり。
つまるところ、ああ、愛されてるんだなあと。こころからそう感じられる、穏やかな日々だった。
あまりにもあたたかい空間だった。
寂しくないと、強がるつもりなんて毛頭ない。ただこの気持ちが、なにに対するものなのか、それがわからないのだ。
きっと、履くのはこれが最後になるローファー。つま先をそっと入れる。毎日履いた靴は、すと受け入れてくれた。たくさんの場所に連れていってくれた。たくさんの景色に、想いに触れさせてくれた。
その靴で、歩き馴染んだ道を辿る。
とん、ととん。
薄暮のなかに靴音が響く。沈みゆく地平線を振り返る。被さる藍に、太陽がぽうと最後の橙灯をともしている。
きれい、と唇が動いた。
音の代わりに漏れるのは、ほわと流れる白い吐息だ。その白を運ぶように、雪解風が吹き付ける。攫われた横髪を手で押さえた。路肩に、庭先に僅かに残る雪が、少しずつ居場所を奪われていく季節。
毎日使っていた定期入れ。座り慣れた座席。三年間で少しだけ変化した、窓からの景色。
まるで、過ごした日々のように。
流れていく景色をぼうと眺めた。
ととん、とん。
バスから降りる。しっかりと着地した両足を見下ろして、それから顔を上げると、ちょうど向こうの通りから彼が渡ってきたところだった。
「おー、ぴったし」
「ん、貴大だ!」
いつもと変わらず、どこかのんびりと歩いてくるその姿。いつからかほぼ毎朝、この場所で会えるのが当たり前になっていた。
高校に近い場所に住んでいる彼が、わたしのバスの時間を考えて家を出てくれているのだ。
とっくに、気づいてる。
そして彼も、わたしが気づいていることに気づいている。それでも偶然を装うのだ。
お互い、この空気がすきだった。
それが、ささやかな幸せだった。
春も、夏も、秋も、冬も。
気づけばいつも隣にいた。
『はよー』
くわあ、あくびをする貴大にうつされたあくびのまま、「おはよー」と返してやっと、1日が始まる気がしていた。
『なー、宿題やった?』
『……帰りに大判焼き屋さん?』
『……しゃーねえそれで手を打とう』
『やった! 餡子とクリームはんぶんこずつしようね』
いつかの会話が木霊する。
3/5と2/5くらいにわけた大判焼き。頬張る帰り道。ゆっくりと他愛のない話をしながら、ふたつ先のバス停まで一緒に歩いてくれた。