さよならの指先
「よし、じゃあ行こー!」
「おー」
「……なんとも気の抜けたお返事ありがとう!」
校門をくぐって、見上げてみる。こうしてまじまじと校舎を見るのは、入学した時以来かもしれない。足繁く通った場所なのに、変な感じだ。
夜の学校は、どきどきする。
仄暗い玄関。ならぶ靴箱。自分の場所だった小さな四角い空間を見つめる。
毎年の二月十四日。漫画のようにカオスと化していた及川の靴箱が、鮮明に蘇る。
半分は、熱狂的な、真摯な愛のこもった。半分は、恨みやら妬みやらがたっぷりの(男子からなのか女子からなのかは今でもわからない)。
もはや昼ドラ顔負けの愛憎劇である。
ちなみに実際の会話はこんな具合だ。
『あ! マッキー、名前ちゃん! 見て見て!』
『う、わあ、今年もすごい量……及川それね、1/4はわさび入りで、』
『1/4はタバスコだな』
『1/4はからしでしょー』
『ちょっと! マトモなの1/4だけ?!』
『ん、やー、最後の1/4は……なんにしよ、醤油とかでいいかな』
『にんにくチューブとかでいんじゃね』
けたけた笑いあうわたしたち。
ぷんすかぷんすか、及川さん。
『なにさなにさ、僻んじゃって』
『? 俺は名前がくれたもんよ。及川の何百倍も最高だわ』
そんな不意打ちをしてくれるのが、彼は得意だった。
卒業式のあとに上履きは持ち帰ってしまったから、来客用のスリッパを拝借する。
ぺたぺた、ぱたぱた。
音の回数と歩幅が反比例なふたつの影が、月明かりの差す廊下に伸びている。ひとつ、ひとつ。辿っていくのは、ここで紡いだちいさな記憶。
はじめて、彼と出会った場所。
狭い教室。隣の席。見せあった教科書。授業中たまに目があうと、「あとちょっとだ、頑張ろーぜ」と、今にも寝そうなしょぼしょぼ
お昼ご飯争奪戦を繰り広げた場所。
『だめー! 今日はお母さん渾身のライオンウインナーなのに!』
『だって名前ママの料理マジでうめえんだもん』
『あ、……あー! 馬鹿! なんでほんとに食べちゃうの! 今日の楽しみだったのに!』
『あ、ちょ、その唐揚げ俺が楽しみにしてたんだって、こら!』
『貴大が悪いもん!』
喧嘩した場所ともいうかもしれない。「何やってんだおめーらはよ」と、みんなに呆れられたっけ。
「お、ここ、あれだな」
「スクープ! 岩泉の告白され現場!」
「ん、ちょっと日本語おかしくね?」
「それはとても気のせいです。ふふ、真っ赤っ赤な岩ちゃん、かわいかったよね」
ぺたぺた、ぱたぱた。楽しげに響いていたその音が、ある場所でぱたりと止まる。
「貴大ここ、……おぼえてる?」
「もち」
校舎最奥の階段。屋上へと通じる扉の前。
そっと彼の手が伸びてくる。うなじに触れた指先が、くんとわたしを引き寄せた。両頬を包むおおきな手。が、耳たぶの端をつとなぞる。
「きゃっ、や……、」
ぴくんと揺れてしまった肩。背筋を走った快感。咄嗟に口をついた抗議の言葉が、彼の唇に吸われていく。
「ん、……ふ」
首筋を滑った指が、背中の真ん中を撫であげる。腰からお尻のラインを絶妙なタッチで触られて、思わず漏れた小さな嬌声。
彼は唇を離し、満足げな笑みでわたしを見下ろす。「続きはあとでな」、今度は吐息が耳たぶをなぞった。
ここは、はじめてキスをした場所。
校内を回り終え、自然と足の向かった先。扉を開くと、心臓より少し上のあたりが、きゅうと痛んだ。
『名前がテーピングしてくれんのって、なんかそそんだよなー』
『っえ゛』
『さすが花巻、いい変態っぷり。でも俺にも巻いて名前』
『お前には俺がやったるよ』
『や、謹んでお断りします』
わたしを置いてけぼりにした、貴大とまっつんのシュールなやり取り。部室に満ちる、賑やかな笑い声。
その渦中に入りながら、一瞬だけ。ほんとに一瞬だけ、テープを巻く指先を握ってくれる彼の仕草がすきだった。
広い、広い体育館に一歩踏み入る。
目を閉じると、今でも眼裏に蘇る。みんなの姿。あらん限りで輝いていたあの日々が。必死に必死に、生きていたあの日々が。
数日後には名も知らぬ新入生が、この場所で。わたしたちと同じように、その時を紡いでいくのだ。
永遠だった。
永遠だと、思っていた。わたしたちの時間なのだとおもっていた。それが、終わってしまう。
ああ、嫌だな。
心底思う。いやだ。
今までもそうだった。たった十八年ですら、そうだった。これから、こんな寂しさをどれくらい越えたら、わたしたちは大人になれるのだろう。
目の前の大切なひと、たったひとり。離れずにすむのだろう。切なさにどれくらい耐えたら、その先のしあわせを見つけられるのだろう。