紅葉畑の紅梟






 ──世界が呼吸する、音がする。





 淡く滲んだ朝陽のなか。

 彼女は確かに、呟いた。

 まるで、大気に浮かぶような、白風のような。青紅葉混ざる世界の中に、ぽうと溶けゆく淡い声で。

 その言葉がやけに気になって、俺は超全速力で走っていた足を、ありとあらゆる力を駆使して止めた。

 声が聞こえたのが、ちょうど彼女の横を通り過ぎたらへん。本当に全速力で走っていたものだから、彼女をだいぶ通り越した場所で、足を止めたことになる。


 ずざざ! ざざ! ズルッ!
 ──っと、アブねー! 転ぶとこ!


 さすがは俺。素晴らしい速度だ。
 華麗に止まった勢いのまま咄嗟に振り返ると、彼女はぱちくり瞬いて、それから三歩ほど後ずさった。

 え、なんで離れんの、と近付くと、同じ距離だけ離れていく。

 負けじと一歩進む。
 彼女は二歩下がる。

 三歩進んで二歩下がるの原理がまったく通用しない。むしろ逆だ。歩幅の違いのおかげで離れることはないけれど、しかし一向に縮まらない距離。

 じりじりと謎の攻防戦を繰り広げ、あーそっか、きっとシャイなんだな、うん、と思った、まさにその時だった。


「ふ、ぎゃ?!」
「?!」


 小枝につまずいた彼女が、すてんと後ろにすっ転んだ。その時になって初めて気がつく。彼女が胸に、大事に抱えるものがあることに。

 それを反射的にかばったのだろう。

 結果、後頭部が地面を直撃する。
 超痛そう。支えてあげたかったけど、支えようがなかった。俺の身体能力を以てしても、ちょっと全然遠すぎた。

 転んだ場所が芝生でよかった、と。安堵の吐息が零れ出る。


「ほら、後ろも見ないでさがるから!」
「だ、って、いきなり迫ってくるんだもん!」
「迫ってなんかねえじゃんよ!」


 あいたた、と半身を起した彼女。は、差し出された俺の手を見て、俺の顔を見て、また手を見る。

 掴もうかどうか逡巡しているみたいだ。いや、逡巡しているというよりは、訝しんでいる、みたいな。

 彼女のそんな心情を如実に表している、空に浮いた手がどうにもまどろっこしくて。俺はその手を、ぐわしと握ってぐいと引っ──

 
「ん、わ?!」
「あっ、やべ!」


 引っぱりかけたのに。
 その手があまりにも、俺が知る手と違っていたものだから。


 女の子の手ってこんなちっせえの?
 このままじゃ、折っちまいそう。


 そのことに驚き、力加減を誤ったと狼狽え、思わず手を離してしまった。

 迷惑極まりないことに、突然手を引かれて突然手を離された彼女は、当然ながら再度、ごちんとひっくり返った。


「うー、痛い……なにするの」
「今のはマジでごめん」
「その前のも謝ってよー」
「それはねーちゃんが逃げるから!」


 歳の頃は定かではない。

 だけど、平日の早朝。私服で──なんつうんだっけこういう格好……ダメだ思い出てこねえ、女子のファッションは分かんね──こんな場所に。

 きっと、学生じゃない。
 ただの勘、されど勘だ。

 恨めしげに見上げてくる彼女。
 こんなにぽわぽわとした空気を揺らして、なのにその真ん中。すうと真っ直ぐ伸びるものを感じる。

 それが俺の知っている、どの世界とも繋がっていない気がして。
 
 だから俺は、足を止めたのかもしれない。


「急に近づいてくるんだもん、怖かった」
「怖い、って俺が?」
「うん、だって、なんかおっきい」
「いやそれは仕方ないっつーか、勝手にでかくなったっつーか、俺のせいじゃない!」
「あと走るスピード速すぎだった」
「いやそれも、……あれ、それ褒めてくれてんの? サンキュー!」
「あと髪の毛がなんか立ってる」
「むっ? それは俺のせいだ!」
「でしょー?」


 今日はじめて、彼女が笑った。
 秋の中。あたたかく注ぐ、木漏れ日のように。

 彼女の頭上に、同じくあたたかな色が広がっている。まだ薄く薄く、葉先が黄に色づき始めたばかりの紅葉だ。

 秋の色が埋め尽くす季節。

 俺が、彼女と出会った季節。


「それで、えっと?」


 今度は自力で立ち上がった彼女が、首を傾げる。その表情には、まだ僅かに懐疑が浮かんでいる。だからなんもしねえってのに。

 問われた俺は、彼女のところで足を止めた理由より、もっと大事な理由を思い出した。
 
 そう、あんなに全速力で走っていた理由を。


「あーッ! そうだ、俺、迷子なんだった!」
「……へ、まいご?」


 拍子抜けしたように、幼子のように。きょとんと目を丸くする彼女の髪の間を、白風が吹いてゆく。
 

「俺、迷子んなっちゃったんだよ! ここの公園さ、無駄に広くねえ? 近道かと思ったんだけどなー」
「あははっ、まいごー? そんなおっきいのにね」
「だからそれ関係ねえの! そっから離れて!」


 ひとしきり笑って、それから彼女は「でも、そうだね」と枝葉を見上げる。

 見つめられて、照れたように紅葉の葉が揺れる。ぽこぽこ浮かぶひつじ雲が、高い空で群れている。


「ここの公園、くるのはじめて?」
「ん、」


 素直にこくんと頷いて。おかしいな、直線距離で行けっと思ったのになー、とぶつくさ零した。


「ふふ、はじめてなのに、こんな道はずれのとこ走ったら迷っちゃうね」
「だろ?! だから道教えて! 俺、急いでんの!」
「どこ行きたいの?」
「えっと……あっちのほう……いやこっちか?」
「……場所は?」
「体育館!」
「…………」
「いや違えの、さっきまでは覚えてた!」
「はい、ケータイ出して、はやくオトモダチにお電話しようね」


 有無を言わさぬ笑顔の圧力に、俺はハイと返事をして、スマホを引っ張り出した。

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