月のおもて
ドタドタドタドタダダダ!
バァァン!
「ダアァーーーッ!!」
ピアノの旋律だけが空間を満たしていた、夜の音楽室。
そこに突如加わったのは、けたたましい足音と、とんでもない馬鹿力により破壊行為のように開け放たれた扉の音と、ピアノの音をかき消すほどの大声だった。
「うるさい喋んないで」
ほんの微々たる驚きも滲ませずに、先ほどと寸分たがわず鳴り続ける旋律の中。静かで、沁みわたるような声が、容赦なく放たれた。
旋律にも似た、澄んだ声が。
だってよ、と継ごうとした二の句を遮り、名前は再び「うるさい喋んないで」と相手を見もせずに告げた。
「まだなんも喋ってねーよ!」
「うるさい喋んないでってば」
「だって赤葦のやつが」
「それは木兎がわるいんでしょ、いいから静かにして」
「だからまだなんも言ってねえ!」
はあ。
ぎゃいぎゃい騒ぐ木兎に、名前は、奏でるみたいに溜め息を零した。手を止める。音楽室を満たしていた音が消える。
入口に目をやる。その姿を捉えた。
半袖のTシャツ。こめかみを伝う大粒。太腿から、膝下まで。覆う真黒なサポーター。まるで、部屋の真ん中で存在を主張する、ピアノのような黒。
視線が絡み、唇の端を持ち上げて満足そうに笑った木兎は、そのまま名前に近づき、ピアノに手をかけた。
「やっとこっち見」
「ちょっと、汗かいた手でピアノ触んないでってば。跡になっちゃうでしょ」
「やべッ! またやっちまった!」
「あ、バカ!!」
首に下げていたスポーツタオルでピアノを拭こうとした木兎を、細い指が必死に阻止した。汗の浸みこんだタオルなんかで拭かれては、堪ったものじゃない。
その様子を不思議そうに、きょとんと見遣った木兎は、「ほれ、ほれ! つめて!」と、名前の肩をぐいと押した。
ぐい! ぐいぐい! と押され、眉根を寄せる名前。木兎のパワー基準が、自分とは随分と異なる次元に存在していると知ったのは、いつのことだったか。
渋々、椅子の中央から端に移動しながら振り向く。返ってくるあっけらかんとした笑顔に、名前の渋面が微かに和らいだ。
それは極々、僅かな変化だった。
木兎はおろか、名前自身も気づかない程度の。
「なんでいつも座ろうとするの。座りたいんならトレーニングになるし、空気椅子でもしてればいいのに」
「わははは、いーじゃんいーじゃん! 減るもんじゃねえし」
「減らないけど狭いの、木兎のお尻でっかいってこと、ちょっとは自覚し」
トスン。
横長の椅子に、ぎりぎりひとり分。空いたスペースに、引き締まった身体が名前とは反対向きに腰掛けた。
触れる腕と腕。
その感触に、名前は口を噤んだ。
ピアノに向き直り、顔を隠すように僅かに俯く。目を閉じ、ふと考える。
こうして木兎がここに来るの、もう何度目?
部活中に赤葦と何があったら、木兎がここに来るのか。その理由を、名前は知らない。木兎も話さない。
ただ、名前のもとに嵐のように現れて、ピアノを弾いて、と強請るのだ。
「今日は、なにがいいの」
「名前が今、弾きてー! って思ってる曲!」
「……木兎はいつも、そればっか」
そう告げて、いつもの曲を。
名前と木兎を出逢わせた曲を、弾き始め──
「待った! 忘れてた! 電気! 電気消さねえと!」
「え……ちょっとは空気読んで、今めっちゃいい感じで弾き始めようとしてたじゃん。そんな毎回、電気消さなきゃだめ?」
「ダメ! 何回も言ってんだろ。俺、あの日の光景が、音が、忘れらんねえの。お前は、お前のピアノは、スポットライトの下じゃねえとダメ、ゼッタイ!」
「……ほんと、木兎はいつも、そればっか。ていうかスポットライトとか、大袈裟」