月のおもて
木兎の言う、「あの日」。[名前]と木兎が、初めて出逢った日。
あの日も、名前はピアノを弾いていた。
いや、弾いていたのではない。身体に、鼓膜に染みこんだ旋律を、指やら腕やら目やらが、勝手に追いかけていただけだった。
ただ追うことに、意味などないのに。
曲を知り、作曲者を知り、時代を知り、こころを知り。既に作り上げられている世界に、更に「自分」を込めて。すべてを込めて弾かなければ、誰にも届かないのに。
いのちを、吹きこんで。
──音が、零れ落ちていくみたいだった。
掬っても、掬っても、指の隙間から、吐息の合間から、零れ落ちていってしまう。落ちていく音と一緒に、名前まで落ちて、落ちて、もう戻ってこれないのではないか、と思ったほどだった。
いわゆる、スランプというやつだ。
(だめ。……あの場所が、呼んでる)
すべてを放り、逃げ出したいとき。
名前の脳裏には、いつもあの場所が浮かぶ。
スポットライトに照らされるステージ。光るピアノの黒。痛いほどの静寂。やけに大きな自分の足音。呼吸。自分のものと思えない震える指。
最後の一音が響いたあとの。
耳をつんざく、拍手と歓声。
あの最高の瞬間を、知っている。知ってしまった。どんなに落ちて、深い奥底からだったとしても。
あの瞬間に、こんなにも焦がれている。
舞台を思い出そうと、名前は気紛れで音楽室の電気を消した。窓からのぞく月。ピアノに映るその明かりが、スポットライトのようだったからだ。
スランプから脱するきっかけは、案外思いがけないちいさなことだったりする。名前の場合は、まさにこれがそうだった。
自身の響を取り戻した、名前の音。
それに惹きつけられるように現れたのが、木兎だった。
名前を初めて見た、あの一瞬。
ああ、コイツは、俺と同じだ。と木兎は思った。俺と同じ。「あの場所」を、知っているヤツだ。
身の内から沸き起こる、理由のない衝動を放散する場所。スポットライトの眩しさも。さんざめく大歓声も。その果ての歓喜も。
知っている。
求めている。
焦がれている。
有らん限りで、一心に。ピアノに向き合う少女の美しさを、その旋律を形容し得る言葉を、木兎は持ち合わせていなかった。
なんだこれ。すげえ。
ただ、こう思った。
一方で名前は、木兎のその姿にある想いを抱いた。
それは、羨望。
全国屈指のエーススパイカー。学園の有名人。その人柄もあり、木兎は学園内ではちょっとした、とういうかかなり注目を浴びることの多い人物だ。
しかし、噂しか聞いたことがなかった。
見たことがなかった。見ないようにしていた。見てしまえば、理想が現実に存在するものだと突きつけられるとわかっていたから。なのに、見てしまった。
羨ましかった。
自由で、我儘で。強いひと。大きなひと。
スポットライトを浴びてなお、自らの光でその光を撥ね退け、蹴散らし、周りを照らして、巻き込んで、引き込んでいく──
羨ましかった。そう在りたかった。
不意の邂逅。
息を詰め、手を止めた名前に、木兎は吹き飛ばさんばかりの勢いで詰め寄り、むんずと手を掴んだ。
「わ、な、なに」
「お前、すげえな! 手、どうなってんの?」
「は、……手? どうって、普通の手だけど」
ていうか、馴れ馴れしすぎ。
初対面とは思えぬ人懐こさ。噂通りだ。しげしげと手を見てくる木兎に、名前は内心、辟易していた。
そんな様子は気にも留めず、木兎は語る。
「俺、お前の音聴いて、すげえなんか、こう、キタァー! って感じたんだよ。生きてるみたいだった。だから手からなんか出てんのかと思って」
「? そんなの出てるわけないじゃん……ってなにしてんの」