追憶

 乱反射とはこういう事か、と思う。

 河川敷を歩きながら見下ろす水面。
 真夏の太陽が容赦なく注いで、これでもかと水面を輝かせる。様々な角度で乱れるように反射する光が、ちくちくと目に眩しい。開けているのがやっとだ。

 赤葦京治は切れ長の目を更に細め、歩を進める。首筋には灼熱。癖のある黒髪が赤外線を吸収して、頭部が異様な熱を持つ。こめかみを汗が伝っては落ちていく。

 足元には寸詰まりになった自分の影。その酷く滑稽なシルエットは、どことなく宇宙人のようだ。

 夏休みに入って、今日で一週間が経とうとしていた。当初のどことなく浮わついた気持ちも落ち着き、部活に精を出す毎日。

 今日は午前中だけの練習だった。
 一日の中で最も気温が高いであろう時間帯に、京治は帰宅しようとしていた。

 あと七分はこの河川敷を歩かなければならない。仕方がないと分かってはいるが、気が滅入ってしまう。

 吐き出した溜め息さえ熱ぼったい。

 諦めて、自分と同じタイミングで動く足元の影に視線を落として歩いていたときだ。

 京治の影の頭部に突如として、真白な肌色と、射貫くような赤が飛び込んできた。

 突然の出来事に、京治の足は反射的にぴたりと止まる。ほんのひととき、息が詰められた。

 肌色が、夏らしいサンダルを履いた足。赤が、綺麗に塗りあげられた爪。そしてその持ち主が、真正面から歩いてきて京治の影を踏んだのだ。

 僅かな時間でそう理解して、顔を上げる。

 その姿を捉えて、京治は目を見張った。

 おかしいのだ。何もかもが。

 恐らく病衣なのであろうピンクのチェック柄ズボンの裾を、膝小僧辺りまで捲りあげて。黒地のTシャツは、ど真ん中に兎のキャラクターが大きくプリントされていて。首にはカラフルな御守りが下がっている。

 そもそも何故京治の真正面に居るのか。
 道幅は狭くなく、大の大人でもゆとりを持って横に五人は並べるだろうに。

 答えは簡単だ。

 その人物は全く、本当に全く前を見ていないのだ。

 単眼鏡を覗くときのように、右手に持った筒状のものを右目に当て、左目は瞑り、大層軽やかで楽しそうなリズムを刻みながら歩いている。

 普通であれば互いが互いの存在に気付き、ぶつかるすんででも踏み留まるものだ。

 普通であれば。

 だがしかし、彼女はどうやら──その外見や行動から分かるように──所謂普通ではない。

 当然、京治は避けようとしたが、時既に遅し。
 彼女の存在に気付いて、最低限の情報を取得し、処理し、理解して身体が動く頃には、彼女はすぐそこに居た。

 文字通り、すぐそこ、である。

 彼女は、汗で湿り気を帯びている京治の胸板に筒状のものをぶつけ、その勢いのまま彼女自身も京治にぶつかり、「ふぎゃ」や「うぎゃ」のように聞こえる奇声と共に踏鞴を踏んで。

 そうして漸く、彼女は止まった。

 その表情──右目には筒を当て、左目は閉じていたから、この時初めて彼女の目を見た訳だが──は、心底驚いたと言いたげだった。

 筒がぶつかった右目の周囲を、痛そうに擦りながら。真円に見開いた目で何度も瞬く。綺麗な形の唇は、ぽけえと半端に開いている。

 京治をぱちくりと見つめて数秒。状況を理解したらしき彼女は、「やだ、わたし」と口にした。思ったより落ち着いた声音だった。


「ごめんなさい。全然前見てなくって」
「……そうでしょうね」


 そうでしょうね。初対面でそうぽろっと言ってしまえる雰囲気を、彼女は纏っていた。

 謝罪してはいるが、寧ろこのアクシデントを何処か楽しんでいるような。そんな明るさが、川で弾ける光に混ざり、彼女の周囲にちかちかと散らばっている。

 ……眩しい。

 多様な色彩に光る金平糖が、彼女の周りを飛び回っているようだ。ちかちか、きらきら。口に含んだ甘ささえ思い起こされて、口内が少し切なくなる。


「怪我してない? 痛かったでしょ」
「いえ、俺は全く。あなたの方が」
「わたしも平気、右目はちょっと痛いけどね。ふふ、恥ずかしい」


 悪戯っぽい笑顔を見せた彼女。
 笑うと随分と印象が若くなる。屈託ない子どものようで、【笑顔が零れる】や【笑顔が溢れる】といった表現がこんなにもしっくりくる人物には初めて会ったな、と京治は思った。

 歳の頃は京治と同じか、いや、やや上か。
 どことなくあどけなさが残る面持ちだが、京治が共に過ごす同年代の女子にはないもの──この時の京治は、それを表すのに最適な言葉を持ち合わせていなかった。無理に言葉を当て嵌めるのなら、ある種の違和感とでも言うのだろうか──が、彼女の表情や言葉の隙間に垣間見える気がする。

 その違和感に内心首を傾げつつ、ぶつかった衝撃で彼女の手から落ちた筒状のものを京治は拾い上げる。
 

「これ、落ちましたよ」
「あ! ありがとう。大切なものなの」
「……万華鏡ですよね、それ」


 懐かしい。
 幼稚園か、若しくは小学校低学年の頃に手にした事がある。

 一時はその麗美で不思議な世界に魅了されたものだったが、すぐに飽きてしまい、今では何処に仕舞ったのかさえ分からない。既に捨ててしまったかもしれない。

 それにしても変わった人だ、と京治は思う。

 服装、所持品、行動。
 彼女の何を取っても京治には不可解過ぎて、現状にどう対処したら良いのか分からず、困惑してしまう。

 そんな京治を気に留める素振りも見せず、彼女がぽんぽん発する言葉は、彼女の周りの金平糖にぶつかり、弾けて。そうして甘さと眩しさを伴って、京治のもとへと飛び込んで来る。

 その甘さは──知ってはならない、禁断の味。

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