追憶


「わたしのおじいちゃんがね、万華鏡作るひとなの。天気いいから外で見たら気持ちよさそうだなあって思ってたら、つい」
「つい、ってそんな軽く」
「ふふ。つい、ね、身体が勝手に病院抜け出しちゃったの。また看護師さんに叱られちゃうなあ」


 複数回抜け出しているのであろう口振りから、入院期間は短くないのだと窺える。悪びれた様子は微塵もない。間違いなく常習犯だ。

 初めてだった。初めて出逢った。

 病院から脱走する人が本当にいようとは。


「あっ、そんな悪ガキを見るような目で見ないで。いいじゃないちょっとくらい」
「……………………」
「沈黙長いなあ」
「……それなら、せめて日陰に」


 彼女の事を露程も知らぬ京治には、その行動を咎める事など出来る筈もなかった。

 しかし、治療に日数を要するからこその長期入院ではないのか。元気な印象だが、この炎天下は身体に障る。
 
 直射日光を遮るものを探し辺りを見回す京治のシャツの裾を、彼女は軽く引いた。


「ありがとう。もう戻るから、大丈夫だよ。もともと長居するつもりはなかったの。病院の中庭じゃなくってわざわざ外に脱走するのも、ちょっとした反抗心なだけだし」
「そう、ですか」


 何に対する反抗心なのか。
 それを彼女は口にしなかったが、その矛先を赤の他人である京治が推察する事自体が不躾だと思わせる、さらりとした口調だった。


「優しいね。わたしのこと、心配してくれたんでしょう?」
「……………」


 はい、と頷くのも、そりゃまあ普通の人ならば、と答えるのも何か違う気がして、京治は沈黙で肯定した。


「それでね、その優しさに甘えてというかね。こうして出逢ったのもなにかの縁ってことで、病院まで一緒に歩いてくれないかな。話し相手になって?」





*

「京治は高校生? おっきいもんね。そっかあれだ、夏休みになったんだ」


 名前と名乗った彼女のコミュニケーションスキルは相当なもので、気付けば京治は京治と呼ばれていた。

 高校ってどんな感じなの?
 部活は? へえ、バレー部。
 彼女いるの? あ、いないのかあ、残念。

 初対面にしては割と込み入った質問もされたが、不思議と嫌な気持ちにはならない。人の懐にころんと入り込む懐っこさは、擽ったくさえあった。

 一頻り質問して、「そっかそっかあ」と楽しそうに肩を揺らしてから。名前は京治に筒を手渡し、年端も行かぬ少女のように笑んだ。


「ね、京治も見てみて。おじいちゃんの万華鏡、最高だから」


 手にした筒は、記憶していたよりもずっと小さく細かった。

 あの頃の小さな手。思い出す。
 ふと胸を掴まれるような感覚。

 いつの間に自分の手は、こんなに大きくなったのだろう。何を手放して、何を手にして。ここまで来たのだろう。

 この手は、何のために。
 大きくなったのだろう。

 
「万華鏡はね、小学生でも作ったりできるけど、とっても奥が深いの。おじいちゃんの生み出す世界は、……果てのない宇宙みたいなんだ」


 宙にぼんやり視線を彷徨わせた名前の横顔。確かにすぐ隣にいるのに。まるで、遥か遠くに居るかのような錯覚に襲われる。

 名前はその宇宙に、──何を見ているのだろう。

 京治は万華鏡を覗くことで、無理矢理名前から視線を剥した。何故だか、これ以上遠くに行かぬようにと手を延ばしそうになったからだ。


「……凄いですね。こんなの初めて見ました」
「んふふ、素敵でしょ。わたしもいつか、こんな万華鏡作るのが夢だったんだ」

(過去形、か)


 出かかった言葉を飲み下して、その代わりに万華鏡を返す。

 見たことのない世界だった。
 京治を引き摺り込もうとする、容赦のない世界。

 何だってそうだ。想いが強く入り込んだものは、妖艶に人を惑わす。惑わせ、いざない、取り込まんとする。

 この万華鏡には、どんな想いが込められているのだろう。その想いを、名前はどのように受け取り、何を感じているのだろう。

 その遠い横顔に、答えがあるのだろうか。


「……まだ他にも、あるんですか?」
「もちろん。おじいちゃん、まだまだ現役でね、たまに新作も持ってきてくれるから。たくさんあるよ」
「もし良ければ、その……また、見せて下さい」


 ぱちくり。ぱちくり。
 名前はゆっくり瞬いた。

 何故、こんな事を言ってしまったのだろう。これで終わりにしておけば良かったのに。病院まで送り届けて、「あんまり無理はしちゃ駄目ですよ」と一言添えて。

 それで終わりにすれば良かったのに。

 そうすれば、これはただの気紛れで、数日経てば思い出す事さえなくなる些細な邂逅で済んだかもしれないのに。


「ほんと? うれしい!」


 ほら、こうやって。
 繋がってしまうじゃないか。

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