おひさまのいろはどんないろ


 ……せっけんの匂いだ。

 まだ瞼が重くて目も開けられない朧気な意識の中に、最初に浮かび上がってきたのがこの香りだった。

 なんとなく懐かしくて、安心できて。控え目なのに爽やかに残る香り。とても気分がいい。このままこの香りに包まれながら、もうひと眠りしたい。

 そう思い、身体にかかっていたタオルケットを引っぱって顔をうずめる。

 ……微かにおんなじ匂いがする。

 そっか。

 なんだか安心する匂いだと思ったら。幼い頃からお気に入りの、洗いたてでふわふわのタオルに包まれてる気分になるんだ。

 ……そっかそっか。

 頭の中で「そっかそっか」を意味もなく繰り返していることに気がついて、眠気でたいした思考もできていないのだと知る。

 やっぱりもうひと眠りしよう。
 そう決めた、その時だった。


 ──パンッ!


 張りのある音が、せっけんの微睡みを突き抜けた。しゃぼん玉が割れるみたく、まんまるの透明な膜が弾ける感覚。

 ……もう、あんなに心地よかったのに。なんだ、だれだ。せっかくの二度寝を邪魔するのは。

 文句のひとつでも言ってやろうと、頑張って頑張って、さらに頑張って瞼を持ち上げる。

 うわあ眩しい。

 これはもう、間違いなくすごく朝だ。すごすぎて、もはやお昼と表現したほうが近いのかもしれない。

 輪郭の定まらない世界。そこで一番最初に目に入ったのは、光でいっぱいのベランダだった。網戸越しに立つ、見知った姿。

 ……そういえばそうだった。昨日は彼のおうちに泊まったんだった。

 泊まったというか。
 寝てしまったというか。

 また「パンッ!」と音がして、「…………だいち?」と声をかけた。思っていたよりむにゃむにゃとした声音で、ちょっと情けない。


「あ、悪い、起こしちゃったか」
「………なあに?」
「天気良いからさ、洗濯。名前ソファで寝ちゃったから、シーツも洗った」


 さっきの【パンッ!】は、どうやらシーツを干した時の音らしかった。

 皺の伸ばされたシーツが、ゆらゆらなびく。カーテンが揺れて、窓からそよそよと風が入る。その風に乗って、香りが運ばれてきていた。


「………だいちのせっけん、いいにおい」
「そうか? 普通の洗剤だけどな」


 洗濯かごを抱えた大地が、窓枠を越えて、せっけんを引き連れて部屋に入る。ぽかぽかの空気がほんのり纏わりついている。

 そのままソファの横で屈み込んで、まだ横になっているおでこを撫でてくれた。


「ベッドに運ぼうかとも思ったんだけどさ、気持ち良さそうに寝てたから忍びなくて」
「……ううん、ありがとう」
「どうする? 起きるか?」
「……いまなんじ?」
「ん、と、十時半過ぎってとこかな」
「…………うう、眩しいわけだ……くやしいけどおきる」
「ははっ何だそれ」


 撫でるついでに分けた前髪の隙間に唇をあててから、大地は立ち上がった。

 ぽろぽろ、ぽろりん。

 大地から光の粒が落っこちてきたみたいで、二回くらい瞬きをしてみた。


「……おはようのちゅー?」
「そう言われると恥ずかしいな」


 そう苦笑いしてから洗濯かごを片付けに向かった背中を見送り、んん〜〜〜〜〜とめいっぱい伸びをして、しばらく天井をぼうっと眺めてから、「……よいしょ」と身体を起こす。

 見計らったかのようなタイミングで、台所から「おはよう。何か食べるか?」と声がして、「……ん、だいちは? もう食べた?」と返す。


「いや、俺もこれから」
「……じゃあ食べる。まだお腹が寝てるから軽くだけど」
「ははっ、オッケー。今作るから、名前はもう少しシャキッとしたら珈琲煎れてな」
「はあい」


 珈琲。コーヒー。ということは、今日は洋食だ。そこに思い至り、「……だいちー、卵はオムレツがいいー」とのんびり付け加えてみる。

 大地はとってもお料理が上手だ。
 洋食も、和食も、それはもうなんでもおいしい。大地の作ってくれるオムレツを想像して、途端にお腹が起き出す。

 あれ、そういえば、「オムレツがいい」のお返事が返ってきてない。聞こえなかったのかな。それはいけない。お腹はもうこんなにオムレツを待ってるのに。
 
 気怠い身体を叱咤して、ソファから立ち上がる。ぴかぴか。窓の外がまぶしい。とってもいいお天気だ。あとで大地と、おやつ持ってお散歩に行こう。
 
 スリッパを履いて台所に入ると、冷蔵庫から卵が取り出されるところだった。

 ひとつ。
 ふたつ。

 みっつ目に伸びなかった大地の手を見て、やっぱり聞こえてなかったんだ、と思う。

 卵ふたつのときは目玉焼きだ。
 大地のぶんと、わたしのぶん。

 慌てて、キッチンに立つエプロン姿に後ろからぴたっとくっつく。「どした?」と降ってくる優しい声に、頑張って起きてよかったなと思う。


「だいち、だめ、オムレツがいいの」
「オムレツ? じゃあ卵もう一個出して」
「やったあ」


 大地の背中から離れるのはまだ名残惜しいけれど、オムレツのためにはそうも言っていられない。背中から頬を離し、ぱたぱたとスリッパを鳴らして冷蔵庫へ向かう。

ContentsTop