そのひと、


「月島はさ、こころの底から誰かを信じてるって言い切れる?」


 突然そう問われて、月島蛍は無言を貫いた。


「……あれ? ねえ、月島、聞いてる?」
「……………」
「だめだめ、わたしは知ってるよ。そのヘッドホンから今現在音楽が流れていないことを」
「……………」
「おーいってばー! 聞いてよー!」


 地団駄を踏む勢いで、いや、実際に地団駄を踏んでみせる名前に、月島から溜め息が溢れた。呆れてしまう。本物の地団駄なんて初めて見た。

 月島は仕方なくヘッドホンを外した。シャープペンシルを走らせていたノートから目を離し、チラリと見上げる。

 そこでは、見慣れた顔がぷんすかと頬を膨らませていた。


「あのさ、僕が誰かを心の底から信じてるだなんて、そんなキャラに見える?」
「ほらやっぱり聞こえてた! なんで無視したの」
「面倒くさいから」
「わあ、ひどい」


 名前は月島の一言を軽く受け流し、隣の席にぽすんと着地した。教室に横たわっていた早朝の少し冷たい空気が、ゆるりと動く。

 昨日の部活がハードだったせいか、昨夜は課題をやらずに寝てしまっていた。幸いにも早くに目が醒めたから、不本意ながらもこうして早朝に登校し、静かな教室で課題を終わらせようと思っていたわけだ。

 思っていたわけなのだけれど。

 失念していた。

 月島のクラスには名前がいて。
 名前は昔から登校が早いのだ。

 確か、飼っている犬がえらく早起きで、毎朝散歩を強請られ起こされるとかなんとか。おかげ様で近所のじいちゃんばあちゃんとすっかりお散歩仲間だよー、と笑っていたのを思い出す。


「そんなとこ座っても駄目。僕、課題やってるんだから邪魔しないでよね」
「へえ、珍しい。月島が課題やってないなんて。どうしたの、恋煩い?」
「はあ? 馬鹿な事言ってないで早く自分の席に戻って」
「だってわたしは課題やってあるし、月島の他にまだ誰も来てないし、暇なんだもん」
「暇って。じゃあなんで早く来んのさ、意味分かんない」
「あはは、ほんとだね、なんでだろ」


 なんでだろって。
 月島の呆れ顔が更に呆れる。

 世の中には、月島には理解できない行動原理で生きている人間がいる。──主に部活には、だけれど。部類は違えど、名前もその仲間なのかもしれない。


「ねえ、どう? さっきの質問。そんなに時間は取らせないからさ」
「……なんでそんな事僕に聞くの。どう考えても聞く相手間違ってるでしょ」


 名前には、月島が誰かを真っ直ぐに信じているようにでも見えるのだろうか。

 そう自問して、そんな事あるわけない、と秒で自答する。どういう縁か、中学一年生から現在の高校一年まで同じクラスなのだ。月島がどういう人物なのか、知らないとは思えない。


「間違ってないよ。だって今日、最初に会ったひとにこの質問しようって決めてたもん。そしたらなんと、月島がひとりぼっちで机に座ってたから」
「……最悪。ていうかひとりぼっちとか変な言い方しないでよ。しかもそれが、ほとんど話さない奴だったらどうすんのさ」


 色々と雑でツッコミきれない。

 それでも会話に付き合おうという気になってしまうのが、四年間の縁なのか。口で言う程、嫌な気分ではなかった。


「君さ、一昨日くらいまでは性善説と性悪説について考えてたじゃん。今度は何に影響されたの」


 名前の癖だった。
 何か気になる話題やワードに触れると、掘り下げて考えずにはいられない。

 考えて、考えて、そして誰かを捕まえては、あーでもないこーでもないそーかもしれない云々。そのうち盛大に脱線して、やれ昨日のテレビはどうだった、あの先輩が他校の女の子と歩いていた、今度新しいカフェに行こう云々。

 一体何がしたいんだ、と思ったこと数知れず。

 月島も何度か捕まったことがある。
 前回月島に振られた話題は、【友情と恋と愛について、その違いが(わたしに)分かるように1000文字以内で述べてみて】だった。

 名前は話題によって相手を選ぶべきだと本気で思う。ちなみにもちろん、月島は即座に回答を拒否した。


「美容室で読んでた雑誌の恋愛相談コーナーでね、彼氏のことが信じられません、どうしたら信じられますかって投稿があって……うわあ、月島、心底どうでもよさそうな顔してるよ」
「分かってくれて嬉しいよ」


 嫌味のつもりでそう言ったが、この程度でめげる名前ではない。何事もなかったかのように会話が続いていく。


「それ読んだ時ね、あれ、わたしって、信じるとか信じないとかあんまり考えて生きてなかったなあって」
「別にそれでいいんじゃない。そんな事考えてたの? なんだか馬鹿みたいだね」
「ば、ばか?」
「だって信じるとか信じないとかって、意図してる時点でもう信じられてないじゃん。意図した事がないって事は、平和な人間関係の中で生きてるって事だと思うけど」


 へ、と間抜けた声を出して名前は月島を凝視した。


「……なに」
「や、なんか変に納得しちゃって。もしかしてわたしって幸せ者?」


 ぶつぶつ言う名前を見て、どうして名前はこんな事を考えているのだろうと不思議に思う。

 月島の疑問に気付いたのか、それとも偶然なのか。名前は自分の指先を見つめながら、ぽつぽつ話す。


「ほら、わたしね、彼氏いたことないから。いつかわたしにも彼氏ができたら、不安になるものなのかなあって。好きなひとを信じられないのも、好きなひとに信じてもらえないのも辛くない? それにそんな関係に意味なんてあるのかな」
「今からそんな事考えてるなんて最高に不毛。彼氏が出来るかも分からないのに」
「気になっちゃったんだもん」


 ぱたぱたと上履きを前後に揺らしながら、名前はやはり、自分の指先を見つめる。


「月島は、さ、恋人とか家族とか、大切なひととの信頼関係ってどんなものだと思う? このひとになら裏切られたって構わないっていうのが、本当の愛情?」


 なんて綺麗事を言うんだろう。そんなふうにただ、一方的とも言える気持ちを持てる強さを備える人間など、いるのだろうか。

 少なくとも月島は、そんな気持ちになどなったことはない。


「……それは裏切られた事のない人間のエゴだと、僕は思うけど」
「エゴかあ」
「見返りを求めない、っていうのは凄く綺麗に聞こえるけど、そんな一方通行な気持ち、ただの自己満足じゃん」


 この月島の言葉に、名前は視線は指先のまま、首を軽く傾げ「うーん」と考えてみせる。

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