その炎は雷を呼ぶか
パラ、と紙が音を立てる。
次のページを見た瞬間、わたしは悲鳴を上げながら枕に顔を押し付けた。
「きゃあ! 『俺じゃダメなのか』って?! 全然いいです! ううんあなたがいい!」
ヒロインが押し倒されて、「俺じゃダメなのか……?」って迫られたところでもうだめ。悶絶。超かっこいい。
「んや〜、でもこの子絶対当て馬なんだろうな……どうしよ切ない」
だなんてごちながら、ドキドキハラハラ、ページを捲ろうとした、その時だった。
「ちょっと名前ー! 頼まれてー!」
階段の下から母の声がして、一気に現実に引き戻される。仕方なく起き上がり、部屋の扉を開けて声を張る。
「なーにー?!」
「ちょっとこれ余っちゃったからお隣に届けてきてー! あったかいうちにお願い!」
「う、」
さっと部屋の中を振り返ると、デジタル時計は18:57。たぶん、【お隣】はまだ部活から帰ってきていない。
行くなら今。
今しかない。
漫画は名残惜しいけれど、さっさと届けてしまうべし。駆け足で階段を降りると、母が大きなタッパーの蓋を閉めていた。
「最近元気なの? 旭くん」
「え、わかんない、元気なんじゃない?」
「わかんないって……同じクラスなのに」
「あんまり話したりしないもん」
「あらそうなの? 昔はあんなに仲良しだったのに、なんだかすっかり高校生なのね」
「すっかりも何も、もう三年生です……」
「なんだか早いわねえ」
お母さんは相変わらずなんだかぽやっとしてるねえ、と心の中で返す。
お隣に住む、東峰旭。
いわゆる幼馴染というやつだ。赤ちゃんの時から隣に住んでいて、一緒にお昼寝をしたり庭でプール遊びをしている写真がたくさん残っている。
ちなみにわたしは大晦日に生まれた。同じ病院でコットに乗って並んでいたというから、わたし史に旭のいない日は一日しかないし、旭史にはわたしのいない日はない。
わたしが覚えている一番ちいさな旭は、幼稚園の年少さん。
わたしは園庭で転んで膝を擦りむいた。膝からはじんわり血が滲んで、じんじん痛くて、立てなくて、涙が出てしまいそうで。
『わあ名前ちゃん! だいじょうぶ?!』
『……ころんじゃった』
『ちが! ちがでてる! うわああいたいよ〜〜! せ、せんせえ〜!』
痛いのはわたし、血が出て怖いのはわたし。なのに旭がわんわん泣くから、なんだか涙も引っ込んでしまって、何故だかわたしが旭を宥めた。
絆創膏を貼ってもらったら、よかったね名前ちゃん、とにこにこ笑って。ああ、優しい子だなあと子どもながらに思った。
そんな可愛かった旭も、いつの間にか身体はどんどんどんどん、更にどんどん大きくなって、髭も生えて、おじさんみたいになった。
けど、中身は変わっていない。
ちょっと気は弱いけれど、頼りなかったりするけれど、本当に優しい。他人の痛みがわかるひと。
一緒にいると居心地がよくて、最近までは変わらず仲良くしていた。先程母に言った「あんまり話したりしないもん」は、わりと最近のことだ。
最近の旭は、何ていうか、少しこわい。
言葉も態度も、これまでと変わりはないのだけれど。時々、──強い目をするようになった。その奥に静かに炎を燃やして。強く強く、何かを見据えている感じ。
それがなんだか──こわかった。
知らないひとみたいで。
わたしと違う世界のひとみたいで。
そういえばいつからだろう。
三年生になって、旭が部活に復帰してからだろうか。
春頃に部活で色々あったようだったけれど、その頃の旭は塞ぎ込んでいて、わたしはそこに立ち入れなかった。
……いや、ちがう。
立ち入れなかったんじゃない。
立ち入ろうとしなかったんだ。
あんなに落ち込んだ旭は、あんなに壁を感じた旭は、この十七年間で初めてだった。
例え旭が悩みを打ち明けてくれたとして、でも、わたしは何も力になれないかもしれない。気の利いた言葉をかけられないかもしれない。余計に落胆させてしまうかもしれない。
わたしは、──竦んでしまったんだ。
ずっと傍にいたはずなのに。当たり前みたいに、そこにいたはずなのに。逃げてしまった。旭がしんどい時に、旭から逃げた。罪悪感が胸の奥に巣食うようになった。
それからだ。
少しずつ、旭との距離が開いていったのは。
わたしの知らないところで、どんどん【おとな】になっていく。ずっと一緒にいたのに、わたしの知らないひとになっていく。
そんな一方的な疎外感を抱いてしまうと、そこからは早かった。自棄になって、旭にとってのわたしの存在意義がわからなくなって、旭の顔を見るのが辛くなって。
なんて自分勝手で歪んだ独占欲。
こんな感情を抱く自分が嫌だった。旭に近づくと、醜い自分が露呈してしまう。
そうしてもっと。
旭は遠くなった。
「旭はなんにも悪くないのになあ……」
玄関を出て、ぽそっと呟いた。
沈んだ太陽の名残が僅かに残る夜空。
わたしの弱さも、一緒に沈めてくれればいいのに。完全に八つ当たりだけれど、太陽さえも恨めしく思えて、ものの数十歩の距離をずんずん進む。
ピンポン!
はーい、あら名前ちゃん!
となるはずだった。
旭の、お母さんと。
なのに現実ときたらこうだ。
ピンポン!
はい、あれ、名前? ちょっと待っててすぐ開けるから。
こんなに低く優しい声で、わたしを名前と呼ぶ。そんなひとは、ひとりしかいない。
タッパーだけ置いて逃げたくなったけれど、扉が開くほうが早かった。