しゃぼん玉
──すれ違うその、一瞬に。
ふたりは意味を、探してる。
*
毎週木曜日。一限後の十分の休憩時間。が、四分経過した頃。音駒高校校舎、南側の階段の二階と三階の狭間。窓光溜まる踊り場と、そこから八段分高い位置。なんの変哲もないその場所で。
ふたつの視線が交わっていた。
交じりあったまま、二秒たった時。ふたりの身体がすれ違う。すれ違いざまに一瞬、視線はふと逸らされて、それから三歩。互いが三歩分進んだ先で、振り返った眸が再び交わる。そして、また一秒。探るように、訴えるように、──手繰るように。周りを歩く級友の間をするりと抜ける、意味ありげな視線をぶつけ、そうしてふたりは手すりの向こうへと消えて行く。
周囲の言葉も、足音も耳に入らず、姿すら目に入らない。ただ、相手の瞳の奥に宿るものを探って、毎度見つめあう。
毎週木曜日の移動教室の
二階へと下りて行く名前。三階へ上っていく夜久。ふたりのこの情事のはじまりは、桜咲く四月の中庭だった。
その日、夜久は中庭で昼食を食べようとしていた。
いつもの昼休みだ。
三年生になってもなんら変わりはない。馴染みの友と、馴染の球。母が毎日作ってくれる馴染みの弁当。
いつもの昼休み。
に、なるはずだった。
(……しゃぼん、玉?)
ふと視界を横切った透明球体。
遥か昔に遊んだ映像が、記憶の底から惹起される。しゃぼん玉なんて子どもの遊び道具だ。それがなぜ、今ここで?
疑問を抱きつつ周囲を見回せば、夜久と同色のカーディガンの袖口から覗く細い指が、ストローを握っている。
視線に気づいたのだろう。彼女も夜久の方を向いた。目があった彼女は、ぱちぱちと瞬きをして、おまけでもう三度ほど瞬いて、そのまま無言でストローを吹いた。
陽ざしをうけ、色とりどりに四方に。煌めくしゃぼん。彼女の瞳がぷかぷかと、飛んでいく玉をついと追う。
頭上には咲き散る桜。はらはらり、落ゆく花びらが一枚、二枚としゃぼんの膜に映りこむ。
春風に攫われたそれらは、霞かかる空の彼方。吹かれてどこかで見えなくなった。
その、すべての光景が。
脳裏に沁みつき離れない。
惚けていた自覚はあった。しかし、友の声がかかるまで動けなかった。だって彼女は、名前は──
「名前―! またそれやってるのー? お昼ご飯、食べるよー?!」
「はあい」
「夜久ー! 何してるー? ご飯! ご飯ですよー!」
「犬みたいに呼ぶな!」
双方、翻した身体。
向け合った背中の間で、泡の珠がぱちんと弾けた。
好きだった。彼女のことが。
弁当をつつく友の輪に加わりながら、夜久は考える。いや、考えるというより、思い出すといったところだろうか。
好きだったんだ。名前のことが。
いつからだったかなんてもう忘れた。だって、小学生の頃からだ。
夜久と名前は小学校が同じだった。クラスは同じ時もあれば、違う時もあった。
よく、一緒に遊んでいた。
帰り道が同じ友、家が近い友、学校でたまたま話した友。気が向いた友と、名前と一緒に、よく遊んでいた。ドッジボール。ぶらんこ。ケイドロ。かくれんぼ。アスファルトという雄大なキャンバスに、チョークで夢と希望を描いたりもした。
挙げればキリなんてない。
なんでもよかった。とにかく遊び、笑い、時に喧嘩をして、そしてまた笑っていた。
『もりすけもあそぼうよー!』
『おう!』
もう随分と懐かしい。
小学生なりにそれぞれが、何かのために生きているんだと、そう思う。学校に行くため、机に座るため、遊ぶため、笑うため、泣くため、怒られるため。
そうして学び、その先にある大切な「なにか」を見つけるため。
高校生になった今から見ると、小学生はなんて気楽なんだろうと、そう思う。しかし彼らは彼らで必死に悩み、生きている。
夜久も名前も、多分に漏れずそうだった。
季節は巡り、制服を纏う歳になった。
夜久と名前は、中学校も同じだった。何も変わらないと思っていた。ただひとつ、オトナに近づいただけだと。
しかし、ふたりを取り巻く時間の流れは否応なしに押し寄せた。周囲の環境は変わり、そうしてふたりも変わっていった。
衛輔、名前と名前で呼び合えば、すかさず「つきあってんの?」と聞かれる。いつからか名を呼べなくなった。次第に夜久くん、苗字と呼ぶことに抵抗がなくなっていく。
名前は細部が丸みを帯び、一気に雰囲気が、笑顔が和らいだ。共に駆け回っていた頃の無邪気な面影が薄れ、「女の子」になっていった。
みんなで遊ぶことなどなくなった。部活に勉強。やることは山ほどあった。
『今日もあそぼーぜー! カバン置いたら、いつもの公園に集合なー!』
などとは、もう誰も言わなくなっていた。遊ばずには過ごせなかった時期は、もう終わったのだと悟った。
流され、流されて。
それがあたりまえになっていった。
運よく高校が同じになったところで、一度変わってしまったものは、そう簡単にはもとに戻らなかった。でも、ずっと。
名前のことが好きだった。
いつの間にか離れてしまった距離を知ってはいた。でも、好きだった。いや、
──今でも、好きなんだ。