しゃぼん玉
すきだった。彼のことが。
友の横に座ってお弁当箱を広げながら、名前はもう遠い昔になってしまった時代に想いを馳せた。
すきだったの。衛輔のことが。
きっかけは、と問われれば、今でも明瞭に思い出せる光景がある。あれは、いつだったか──
季節も学年も定かではない、いつかの休日。彼が所属するクラブチームの応援に級友と行ったことがあった。バレーのルールもよく知らず、試合すら見たことがなかった頃だ。
息が、止まるかと思った。
大人からすればなんとも可愛い試合なのだろう。しかし、同じ小学生の名前にとっては、それはそれは猛々しいものだった。
(球ってこんなに速いの? こんなに痛そうな音するの? 衛輔、死んじゃうよ……?!)
この頃の夜久は、名前よりも背が低かった。自分よりも小さな彼が球に触れようものなら、吹き飛ばされ、転がって、そのまま壁にめりこんでしまうと思ったのだ。
いや、さすがにそれは誇張というものだが、名前にとってはそれほどの衝撃だった。
はらはら、はらはら。
落ち着かない心地で球を追っていると、あろうことか「すぱいく」とかいうものが、彼目がけて飛んで行くではないか。
(ひいぃー! なにあれ! 危ない! 死ぬ! 死んじゃう! 逃げてえー!)
咄嗟に両眼をてのひらで覆った。覆った下でおもわずぎゅっと目を瞑りそうになりながら、かろうじて指の隙間から彼を見た──その瞬間。
息が止まった。こくりと喉が動いた。
ただ、ただ、綺麗だった。
あれだけの威力の球が、何をどうしたのかはわからないが、ふわりと浮いたのだ。ちなみに夜久は無理な体制で球に飛びついたせいで、床に転がっていた。
描く美しい放物線。に、目を奪われた。くるくる、否、ぎゅいんぎゅいんと猛威を奮って回っていた球が、大人しく宙に浮いている。
(……すごい)
気づいた時には、友と共に声を張り上げていた。
『もりすけー! うおーッ! すげー!』
『もりすけー! すごーい! すごいよー! かっこいー!』
『ないすれしーぶもりすけー!』
『え、なんて? 今の「れしーぶ」っていうの? どこで覚えたの!』
『わかんねえ! 相手のチームのおばちゃんがさっき叫んでた!』
そっかあ。今のふわってやつ、れしーぶっていうんだ。
幼心に感動というものを覚えていた。抱いたのは、憧れにも似た気持ちだ。
そして時として、憧れは恋となる。
とくん。
心臓がはじめて、特殊な鼓動を刻んだ。
(…………すき、なの?)
こころに問いかけてみた。
(……すき、なんだよ)
自分の声が返ってきた。
ぽてん、胸のあたりが恋という世界に落っこちたのを、名前ははっきりと自覚した。
いわゆる両想いというやつだ。
しかしそれぞれの想いを嘲笑うかのように、互いの距離は遠くなっていく。
夜久は一気に身長が伸び、いつのまにか名前の背を越した。骨が、筋肉が角張り、声が低くなった。顔の線が細くなり、「男の子」へと変化を遂げた。
そうしていつしか高校生となった。
嬉しかったのを覚えている。偶然にも同じ高校だった。もうその頃には話さなくなってしまっていたが、それでも嬉しかった。
高校では、クラスは一度も同じにならなかった。でも、視界のどこかに、いつも夜久の姿を探していた。
始業式、終業式、学校祭、体育祭。あらゆる行事でクラスの垣根がなくなるたびに、境界線が曖昧になるたびに、夜久のことを探していた。
それなのに音駒に入学してからの二年間、ふたりの視線が交わることはなかった。
例えば後ろ姿とか。
例えば廊下から聴こえる笑い声とか。
そこに互いの存在だけを感じて、ただひたすらに過ごしていた。
だから、四月のあの日。舞い散る桜の花びらのしたで。不意の邂逅に、名前は視線を逸らした。しゃぼんを追うふりをして、逸らしてしまった。
目が合うなんて、一体いつ以来だっただろう。どうしたらいいのかわからなかった。声をかければよかったのか、微笑めばよかったのか。
しかし、この時だったのだ。
再びのはじまりは、この時だった。止まっていた時間が、確かに動き出した。