坂を転がるピアスみたいに
*
大好きだった。
リエーフに出逢った日は、あの日によく似ていた。彼と最後に別れた日。世界の気配も、太陽の光り方も、風の匂いも。
彼の空気が溢れすぎて、抱えきれなくて外に出た。外の空気にもまったく変わりはなかったのだけれど、それでも、狭い部屋に満ちてしまうよりはよかったと思う。
何気なく見上げた空に、一羽の鳥が飛んでいた。その姿を追いかけていると、いつの間にか名前の胸は酷く苦しくなっていた。
……みんな、どうやって生きてるんだろう。
幾度となく不思議に思ってきた。
名前だけでなく、みな、大切なひとを失う経験をする。大切なひとのいなくなってしまった世界で。こんな気持ちを抱えながら、どうやって。
いつも答えは出なくて、でも生きなければならない気がして。何かに流されるようにして、気づけば月日が過ぎている。
名前は緩く
そうだ、アップルパイを作ろう。彼が美味しいと言ってくれたアップルパイ。それを食べて、お腹いっぱいになったら。
そうしたらきっと、元気になるから。
大丈夫。大丈夫。
わたしは、大丈夫。
ぼけっと買い物をしていたら、いつの間にか林檎をたんと買い込んでいた。肩にかかる重みにふらふらしながら、めいっぱい空気を肺に満たす。
「ちゃんと吸える。……だいじょうぶ」
と油断したのも束の間。
風にスカートが煽られて、慌てて押さえたはずみでバランスを崩した。肩のバッグが小さく跳ねて、ひとつ、落ちていく感覚。
どうやら自分が思っていたよりも鈍くさかったようで、そのあとも何個か楽しそうに転がっていって、そして辿り着いたのが──リエーフだった。
リエーフの真っ直ぐさが眩しかった。
それと同時に、羨ましかった。名前にはなかった真っ直ぐさが、羨ましかった。
真っ直ぐ、ってすごく難しい。
そう名前は思う。とても勇気がいる。照れくさいし、あえて言わなくてもいい気がしてしまうし。受け入れてもらえるとは限らないから、怖くもある。
言葉にしなければ伝わらないことなどたくさんあるのに。名前はあまり、生前の彼に自分の気持ちを伝えられたことがなかった。
そのことがどうしても後悔となってしまっていた。もっと伝えていればよかった。大好きだと。一緒にいられて幸せだと。
ぬくもりを忘れないように。
そのぬくもりで生きていけるように、抱きしめて。
最後だとわかっていたなら。
もっと、もっと。
そんな後悔を抱えて暗がりで生きていた名前には、リエーフはまるで──標に光る燈火みたいだった。
その標を辿ってみたかった。この世界との繋がりがほしかった。誰かに必要とされたかった。
ひとりは、寂しかった。
……だけど、彼はどう思うだろう。リエーフの隣を選んだら、悲しむだろうか。寂しく思うだろうか。
そう思うと踏み出せなかった。
ずっと彼だけを想って強く生きていけたらよかったのだろうか。そんな生き方を、彼は望むだろうか。
何度もこんなことを考えて、でも、本当はずっとわかっていた。
これは、自分に対するただの憐憫と。
彼への、懺悔なのだ。
だって、彼なら。
──幸せになれよ。って笑うもの。
*
「酷いでしょ。こんなに幼気な高校生の純真な気持ちを、リエーフを、利用したんだよ。自分が楽になるために」
「え、そう? どっか酷かった?」
「え?」
あっけらかんと返したリエーフに、名前は心底わけがわからない、といった顔をした。もはや顔に「何言ってんだ、さっきはあんなに怒ってたのに」と書いてある。
名前はしばらくその顔のまま固まって、「は〜、なんか気抜けちゃった」と視線を真上に流した。
この青は、名前にも染みているのだろうか。先ほどリエーフに染みたように。その傷んだ心髄に、──染みているのだろうか。
その横顔を見ていたら堪らなくなって、リエーフは名前に手を伸ばした。
「名前さん、おいで」
「え? う、わ」
ひょいと頭を持ち上げて、腕枕のかたちで名前を抱え込む。ちっちゃい。リエーフのなかにすっぽりとおさまる。
この小さい身体の中に、リエーフには想像もつかぬ痛みが巣食っている。
「泣いてもいいよ」
「ふふ、泣かないよ」
「えー、なんで」
「リエーフのおかげで気が抜けちゃったから」
腕の中でくすくすと揺れる肩を、強く抱きしめる。
リエーフには、名前の抱えるもの全てはとても受け止めきれない。あまりに若く、あまりに未熟だ。
でも、それでも。
「ねえ名前さん、さっきの話さ。なんか俺には、俺のことが好きです! って言ってるように聞こえたよ」
「ん、……すきです」
「えっ」
「えっ、なんで驚くの」
「だって、え? ほんと?」
きっと困難はたくさんある。
想い出には敵わないと思ってしまう日さえ来るかもしれない。
でも、名前が勇気を振り絞ってくれたから。リエーフも、それくらいは乗り越えてみせると誓いのように刻む。
「自分で言ったくせに……ほんとです」
「名前さん!!!!」
「うわあ潰れる! ちからが! つよい!」
仄かに赤みが差した名前の耳朶を、今度はやわく噛んだ。
坂を転がるピアスみたいに + 獅子に食まれた林檎のように
終