人魚の背骨
「今日の朝ね、言われたの。もう引退した部活の先輩に」
カチリ、ピースの嵌まる音がした。
彼女の着ているベンチコートの背中、NEKOMA HIGH SCHOOL SOCCER CLUBの文字を思い出す。そして、先ほど山本がしていた話を。
あれは、名前の事だったのだ。
「……すきって、何なのかなあ」
意外だった。
だって名前は、いつもニコニコしていて、気配りが上手で、学校での人間関係も円滑に出来る子なのだ。
そんな彼女が、「すきがわからない」だなんて。
「考えたことないです、ごめんなさい。って答えたら、じゃあ考えてほしいって。だから、考えた。授業中も、休み時間も、お昼の時も、ずっと。でもわかんなくて」
膝の上に顎を乗せた彼女は、落ち込んでいるようにも見えた。意外だ、と最も感じたのは、彼女本人だったのかもしれない。
「ね、付き合うって、なにするんだっけ?」
「……おれに聞かないで」
友達に聞いてよ、と零すと、「友達にはもう聞いたよ」と返ってきた。
「なんかね、一緒に帰ったり、ご飯食べたり、遊んだり、メールしたり、電話したり、手つないだり、家に行ったり、色々するんだって」
「ふうん」
「これ、半分くらい研磨としてるなあって」
「……? そうかもね」
言われてみると、確かにそうだった。
けれど、研磨たちは付き合っている訳ではない。名前につられて段々とこんがらがってきた。
「試しに付き合ってみれば、とも言われたけど、付き合うって、お試しでやるものなんだっけ?」
「だからおれに聞かないでってば」
少しムキになっている自分に気づいて、研磨は「……??」と首を傾げた。ちょっと眉間に皺が寄っている。
「わたし、先輩と遊園地に行くより、研磨たちの試合観てたいなあって思った」
あ、もちろん春高も観に行くからね。
くるっと研磨の方を向いて目尻を下げた名前に、研磨は無言で頷いた。頷くと同時に、ほっとした自分にも気付く。
悩んでる彼女より。
笑ってる方がいい。
先輩の話は、もう止めて。
バレーの話をしてほしい。
「なんでそんな一生懸命に考えるの」
「……先輩のあんな辛そうな顔、見たの初めてだったの。最後の試合に負けた時だって、」
──あんな顔、してなかったのに。
チクン。
研磨の胸のあたりが、痛み出す。
そんな顔、しないでほしい。研磨は思う。先輩がどんな顔してたのかは知らないけど、名前だって辛そうな顔してる。おれも、名前のそんな顔見るの初めてだよ。
また笑って、あの話をして。
試合後に必ず「今日も綺麗だった。ありがとう、また観に行くね」と言ってくれる。何が綺麗なのかは、五年経った今でもさっぱり分からない。
だから、この話を聞かせて。
先輩の話は、もういいから。
そう思うのに、研磨は聞いてしまっていた。だって、これじゃあまるで。
「……名前は、そのひとのことがすきなの?」
「……いい先輩だとは、思うけど」
彼女は本当に困惑しているみたいだった。
なぜ、考えに耽っているうちに、ぶらぶらここに来てすべり台に登る事になったのかは、皆目検討もつかないけれど。
彼女の思考が、朝から晩までその先輩で占められていた。そう考えただけで。
チクン、チクン。
胸のあたりが、酷く痛む。
「ねえ名前」
「なあに」
「その先輩とは付き合わないで」
「……研磨?」
月明かりと同色の髪が揺れる。
揺れて、俯いていた研磨の表情が覗いた。ぎらり、試合中でも滅多に見せないような、獲物を狙う眼光を放って。
その光景に、名前が息を呑む。
数秒の後、眼光を消した研磨は月を見上げた。低くて大きい、金色の満月。びゅうと寒風が吹く。
「……寒いから、さ」
「う、ん」
「おれと、一緒にいて」
その言葉に、名前は驚いたように目を丸くした。思わず身じろいで、傾いだ重心。そのままであればすべり落ちていたかもしれなかった身体を、咄嗟に研磨が支えた。
名前は未だ目を見開いて、硬直している。研磨は彼女のマフラーを引き下げて、頬に触れた。
「名前」
近距離で覗き込むように見つめられて、問うように名前を呼ばれて。名前の頬がみるみる染まっていく。
外気に触れた唇が、ぴくりと動いた。
「 」
人魚の背骨 + おれたちの肉球
終