砕硝子音
晩秋の風に、はらり、枯葉が落ちる。沈みきった夕陽の微かな残灯だけを頼りに、夜に浸食される視野のギリギリで、天童はその葉を追う。
すっかり寒々しくなった空の下。
屋上のフェンスに手をかけ、今にももげてしまいそうな葉が数枚だけ取り残された枝を見下ろす天童の脳裏に、いつかの教科書に載っていた「葉っぱ」の話が過った。
「さとりんは、どうおもいます?」
不意に背後から向けられた問に、天童は思い出しかけた葉っぱの話から、思考を切り替える。
「何がー?」
手はフェンスにかけたまま、ぐりんと首だけで振り返る。否、振り仰ぐ、と言うのだろうか。
大きく開いた眼裂。その中心で、細い瞳がきょろきょろ動いている。
「今日の授業中のできごとです」
「ああ、今日はそのこと考えてたんだ?」
「ですです。なので『わたしの部屋で増大し続けるエントロピーをくいとめるにはどうすべきか』は、明日考えることにしたです」
むむ、片眉を顰めたのは天童だ。
「それは名前ちゃんが片づけがんばれば一瞬で解決だけどネ」
「相変わらずおかしなこといいますねえ。片づけても片づけても増大するから、悩んでるわけです」
「あ、そー」
大きな天体望遠鏡。大きなレジャーシート。大きな座布団。大きな毛布。
厚い眼鏡の奥でくりくりな目を瞬いて、「そうです」と断言した名前は、天童を一瞥してから接眼レンズを覗き込んだ。
苗字名前。天童のクラスメイト。お星さま観測部。部員はひとり。つまるところ、部員と部長が必然的に等号で結ばれてしまう、天文学部所属だ。
「部長なんて柄じゃないのですけどね」
「それ聞くのももう三年目だネ」
戯言に戯言を重ねた会話。ついでに年季も重なった会話。に、最近は次の台詞が追加されるようになった。
「まあ、仕事はないんだからいんでないの、肩書だけもらっとけばさ。工とか絶対欲しがるよ」
「ツトムさんとは」
「……名前ちゃん覚える気ないでしょ」
「ふむ?」
名前は、興味のないことは恐るべき早さで忘れる。もしかすると忘れるのではなく、はじめから覚える気がないのかもしれない。
「覚える」という概念ではなく、必要なものが勝手に「頭に残る」感覚なのではないか。そう感じることがある。
本人に悪気は全くもってないのだが、五色のことが不憫にさえ思えてくるから不思議だ。
(工と名前ちゃんって会話できんのかな……)
そう考える天童をよそに、名前は何かに思い至ったように顔を上げた。
「あっ、でも、牛若若利さんは覚えたです。さとりんのはなしによく出てきます」
「んー! 今日も惜しい! 牛島若利くんね」
通常は立ち入り禁止の屋上。そこに我が物顔で店を広げ、部活動(つまり天体観測)に勤しむことができるのは、ひとえに天文学部顧問の先生の厚意なのだけれど。更に言えば、この部員数で部として存続していられるのも、先生の尽力の賜物なのだけれど。
名前がそれに気づいているのかは、定かではない。
事の始まりは、二年と少し前。
天童が部活を終え、寮へと戻る道すがらのことだった。
『つっかれたァー! ねえ若利くん、今日の晩飯何だろね?』
『知らん』
『だよね』
ぐぐ、思いきり伸びた先。
偶然視界に入った一番星。
体勢を戻そうとして、同様に戻しかけた視線。その途中で、屋上に不自然な陰を見た。
はてさて、この世に在らざるものを見てしまっただろうか。夜の学校である。しかし、恐怖心よりも好奇心が遥かに勝った。
『俺ガッコに忘れ物した! 先戻ってて!』
『そうか、分かった』
素直に頷いた牛島に手を振り、天童はぴょーんぴょーんと校内へ入った。屋上への階段を駆け上がると、さてさて予想通り。
重たい扉の鍵が開いていた。
『ありゃ、ここは一般人立ち入り禁止ですよー?』
ギイ、開く扉。
振り向いた陰。
その陰が、数時間前まで同じ教室にいた女子生徒だと分かり、天童は躊躇なく声をかけた。
『へー! 何楽しそうなことしてんの、苗字さん?』
『……誰です?』
『……同じクラスになって三ヶ月は経つよね?! そろそろ覚えて欲しいなー?!』
『ふむ、道理で見覚えが』
名前とは話したことがなかった。厚い眼鏡こそ印象的だったが、その程度の認識だ。
『まあいいや、それより星好きなの?』
『すきです。星はいいです。星見て考えごとすると、自分ががらんどうになります』
『何考えんの?』
『いろんなことです』
星空を見上げた記憶など、天童にはなかった。体育館の天井。ネット越しの視線。果ての快感。
それがすべて。
『先人にはほんとうに、星のこえが聞こえたのですかねー』
『……さあ?』
『星の動きに自分の運命を委ねるって、どんな気分なのでしょう』
──この子と話すのは、面白い。
そう、思った。