砕硝子音
それからは、気が向いた時に足を運んだ。扉の鍵は開いていることもあれば、開いていないこともあった。
名前と話すたび、他人事のように考える。
この現代社会において、名前の生き方は、苦しくはないのだろうか。辛くはないのだろうか。
天童がとやかく言えたことではないが、名前もまた、一般的に、そして控えめに見ても独特の「それ」を持っている。
ほんの数日、名前の姿を追ってみれば嫌でもわかる。名前が、他人からどう見られているのか。
しんどくないの。
そう、幾度訊ねようとしたか分からない。
「もうオリオン座が来てますよー」
「あ、それなら俺も知ってる! 望遠鏡なくても見えるよね?!」
「ですです」
「でも俺も覗いてみたい!」
「どーぞどーぞ」
なのに、こんな会話をしていると、どうでもよくなってしまう。彼女にはそもそも、「他と違う」という観念そのものがないかのようなのだ。
名前の隣りに膝を立てて座り、天童もレンズを覗く。片目を瞑って、もう片目でレンズの中の夜空を探る。そのまま視線は向けずに訊ねた。
「そんでさ、何考えてたの?」
「あ、そうでした。授業中のおはなしでした」
名前が毛布の中で膝を抱える気配がする。そうか、もう毛布が必要な季節なのか。今更ながら、そのことに気づく。
「泣いちゃった女の子、いたですよね」
「そだネ」
「そのときのこと、考えてたです」
今日、数学の授業中のことだ。
学園内でも専ら理不尽が過ぎると評判の教師に、運悪く絡まれてしまった女子生徒がいた。難度の高い問題を解いている最中のことだった。
こんな問題も解けないのか。自分が高校生の時は簡単に解けた。もっと難しい問題が蔓延っていた、と散々詰られ、挙句「他の生徒はこうならないように勉強するように」。
上手く躱す術を知らなかったのだろう。
己の感情を抑えきれなかったのだろう。
精いっぱいで抗ってみせた彼女はしかし、最後には耐えきれず、唇を噛み締め、ぽろぽろと涙を零した。見兼ねた級友が口を挟んだが、それすら一蹴されてしまう。
「あれはまァ……酷かったよね」
「? そのはなしじゃないです」
「あれっ? じゃあどこ?」
思わず顔をあげ、名前を見た。名前は感情の読みとれない表情で、視線を伏せている。
「ああいうひとはどうしようもないです。そうじゃなくって……泣いても、泣かなくても、どっちでもいいとおもわないですか?」
(あー、そこかあ)
教師の言葉を更に思い返す。
こんなことで泣くなんて情けない。恥ずかしい。これだから今時の生徒は。と、意味の分からないことを、大仰な溜め息とともに口走っていた。
社会に出たら、通用しない。
泣いて解決できると思うな。
「なんだかちがう、です」
「うん?」
「泣いたから弱いとか、泣かないから強いとか」
「なるほどね。アレでしょ、泣いたって何も変わらないのに、なんで泣いてるヤツが可哀想って同情してもらえるのか分からない、とか」
「うむうむ。挙げたらキリはないのですけれど」
目が合う。名前の瞳が、天童の答えを窺っている。
──さとりんは、どうおもいます?
こういうことは珍しい。名前はあまり、他人の思索を引き出そうとはしないから。
「それはさ、みんな自分を正当化したいだけ、なんじゃない」
「………?」
「泣くのを我慢できるヤツは、どう堪えたって我慢できないヤツの気持が分からない。その逆もまたしかり、だ」
「……、不思議だなあとおもうです」
卒業式は泣いてよくって、授業中に泣くのはだめです? 試合に負けて泣くのはよくって、怒られて泣くのはだめです?
「泣くのを責めるひとは、泣いたことがないのですか?」
名前は問う。
心底、分からないといった顔だ。
ヒトの思惑が絡みに絡んだ涙もあるし、血も涙もないヤツらだっているんだよ。シチュエーションにもよるでしょ。
そう言いかけて口を噤んだ。きっと、名前には理解し難い世界の話だ。
ほう、息を吐いてみた。
ほわわと白が空に浮く。
別に、何だっていい。俺には関係ない。そう思い、天童はすっと目を細めた。そのまま無言に任せ、しばらくしてから「ああ、でも」と、思いついたように目を開く。
涙の零れる瞬間は、嫌いじゃない。
ぎりぎりまで張りつめたものが、ふつり、切れて落ちる様。今にも壊れそうに保っていた薄いガラスが、ぱりん、と。小さく高い音を立てて壊れるようで、美しくさえある。
「なので、」
途切れていた会話を繋いだ名前の声が、耳の奥で、ガラスの砕ける音に重なった。意識が引き戻される。
「頭がパンクしそうなので、今日はペガススさんにお世話になります」
「どれ?」
「これです」
星座図鑑を広げ、名前は示す。ペガスス座。天を駆けた白馬の、最後のかたちだ。
「……はあ? これのどこがペガサスだよ?!」
「ペガススです。……ゲスモンスターでも解せぬのですか、想像は苦手なのですか」
「ゲスってその解すじゃないし何で想像が得意だと思われてたの俺?!」
「ふふ、さとりんは今日も元気ですー」