ねこ踏んじゃった


私が夢ノ咲学院に転校してきて間もないある日のこと。

昼休み、提出物のプリントを届けるために職員室へと向かっていると、風が吹いてきてプリントが窓の外へ飛ばされてしまった。
私は慌てて、プリントを追いかけて中庭へとやってきた。

確か、この辺りに飛んでいったはずなんだけど……。
きょろきょろと辺りを見回しながら歩いていると、ぐにゃりと何かを踏んづける感触がして、足元に視線を下ろす。
するとそこには、地面に横たわって眠っている黒髪の男の子がいた。

「!?」

私は慌ててその男の子の上から飛び退いた。
しかしどうやら起こしてしまったようで、ゆっくりと持ち上がった瞼の下から赤色の瞳が覗いた。

「……うー。もう、何なの。せっかく人が気持ちよく寝てんのにさぁ?」

男の子は不機嫌な様子でそう呟きながら、気怠げに上半身を起こす。

「俺、安眠を妨害されるのが一番嫌なんだよねぇ」

そう言って非難の視線をこちらに投げかけてくる。

「ご、ごめんなさい。起こしてしまって……」

どうやらかなり不快な思いをさせてしまったようだ。私はぺこりと頭を下げて謝った。

「ほんと、気をつけてよねぇ? 俺の睡眠の邪魔さえしなきゃ、文句はないからさぁ」

そう言いながら、男の子はふわぁとあくびを一つ零した。
冷静に考えると、こんな場所で寝ている彼にも非があるのではないかと思ったが、それは口には出さないことにした。

「まぁ、いいや。そろそろ起きないとまたま〜くんに怒られるし……」

そう独り言のように呟きながら、男の子はゆっくりとした動作で立ち上がる。
ま〜くんとは誰のことだろうと考えていると、話しかけられて思考が遮断される。

「ところで、あんた誰? なんでアイドル科の敷地に女の子がいるの?」

「あ、私は……」

先日プロデュース科に転校してきたことを伝えると「ふーん」という声が返ってきた。
興味の無さそうな返事だったが、彼はこちらの方を観察するようにじっと見つめてくる。
なんだろうと私は少し首を傾げた。

彼は私の方へと歩み寄ってくると、間近まで近づいてきて顔を覗き込んできた。
急に近づいた距離に私は思わず後ずさろうとしたが、腕を掴まれて阻止されてしまう。
至近距離で赤い瞳にじっと見つめられ、私は思わず息を飲んだ。
なんだか吸い込まれてしまいそうな、そんな瞳だ。
身動きがとれず固まっていると、目の前の彼は目を細めてへらりと笑ってこう告げた。

「いいにおいがする」

「え?」

腕を掴んでいない方の手で腰をぐいっと引き寄せられ、彼の顔が私の首元に寄せられた。

「あ、あの、ちょっと……!?」

「甘いにおい。美味しそう……」

うっとりしたような声で耳元で囁かれ、ぞくりと背筋が震えた。
突然の出来事にパニックになる私をよそに、彼はすんすんと匂いを嗅ぐ。

「どうしてこんないい匂いがするんだろう。血も出てないのに……」

「……っ!」

吐息が首筋に触れてくすぐったい。
私は顔を赤くしてギュッと目を瞑る。
この状況から抜け出す術が分からず、されるがままになっていると、ふいに後ろから聞き慣れた声がかかった。

「あ、いたいた。お〜いあんず、プリントが落ちてた……って、凛月!?」

「あ、ま〜くん♪」

現れたのは、真緒くんだった。
ま〜くんとは真緒くんの事だったらしい。

「何してんだよ凛月!!」

真緒くんは、慌てて私から彼を引き剥がす。
ようやく開放された私は真緒くんの後ろにさっと避難した。

「ん〜? いい匂いがするなあと思って、つい」

「ついって、お前なぁ……。大丈夫か、あんず?」

「う、うん。ありがとう真緒くん」

私はほっと安堵の溜息を吐く。
私と真緒くんのそんなやりとりを見て、黒髪の彼は首を傾げた。

「ま〜くんは、そいつと知り合いなの?」

「あぁ。あんずにはトリックスターのプロデュースをしてもらってるんだ。というか、凛月こそあんずと知り合いだったのか?」

「いや、今初めて会ったばっかりだけど」

「お前、初対面であんな事してたのかよ! まったく……。ごめんな、あんず。凛月が迷惑かけて」

「ううん、大丈夫……」

「ほら、お前も謝れ」

「ごめんねぇ?」

口ではそう言っているが、全く謝る気は無さそうだ。真緒くんの呆れたようなため息が聞こえた。

「一応、あんずにも凛月の事紹介しとくな。こいつは俺の幼馴染の朔間凛月。ちょっと変わったやつだけど、悪いやつじゃないと思うから……たぶん」

「たぶんってひどいなぁ、ま〜くんは。まぁ、いいや」

そう言うと、真緒くんの背中の後ろに隠れたままの私を横から覗き込む。

「ね、俺もあんたの事あんずって呼んで良い?」

「う、うん」

「俺のことは、凛月って呼んでくれていいよ」

「じゃあ……りつ、くん」

名前を呼ぶと、彼の目が楽しそうに細められた。

「うん。よろしくねぇ、あんず」



2016.08.31

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