それは美しき

何もかもが燃えていた。

大好きな人たちも、家も、美しかった庭も、何もかも。
炎がすべてをさらっていった。


眠りにつけば何度でも、その光景がよみがえる。

火の粉が舞い、赤々とした炎が夜空を照らしている。煙が視界を曇らせ、喉の奥を焼くように苦しい。耳をつんざくような爆ぜる音と、遠くから聞こえる悲鳴――――そのすべてが、現実のものとは思えなかった。思いたくなかった。

炎がいつも大切なものをさらっていく。男にとっての記憶の中のほとんどは、炎に包まれた記憶だ。

父からは復讐をしてはならないといわれ、復讐することもままならない。
気が付けば、いつの日か自分が憎んだ存在と同じ道をたどっていた。
嫌気がする。こんな生き方を望んでいたわけではない。

飛び出した先で倒れた私のもとに女がやってきた。よわっちくて何もできそうにない女、人を殺すことどころか虫すらも殺せぬような、非力な女。
日常の象徴のような女。
そんな女が私に手を差し出してくれた。汚れた私の手を握ってくれたのだ。

まぶしくて、目がくらむ。それでもその手を振りほどけはしなかった。
暗闇の中を抜け出そうと必死に逃げ続ける。誰も信じられない、誰にも気を許せない。けれど、闇の中で手を握ってくれる女が現れた。自分の手に握られた温かさだけが確かだった。

彼女の手だ。
細くて、震えていて、それでもぎゅっと握り返してくる。

――怖いのだろう。

怖くて、たまらないのだろう。
その気持ちは、痛いほどにわかる。だからこそ、何があっても、この手だけは離すわけにはいかなかった。



追われる身であると知っていながらも、女を置いていくことができなかった。自分の前に突然現れた女が、自分に忘れていたぬくもりを思い出させたから、その笑顔が優しくて、隣にいることが居心地がよかったから。だから、自分のいる地獄に女を引きずり込んだのだ。


泥にまみれながら必死に逃げる。追っ手によって追いつかれ、その身を切り刻まれ、それでも懸命に走り続けた。
彼女が叫ぶ。息が詰まるほどの恐怖がにじんだ声だった。
振り向いた瞬間、背後に迫る影を見た。武装した男たちが駆けてくる。手にした刃が鈍く光る。


思考するよりも先に、彼女の手を引いて駆け出していた。

走る。

全速力で、走る。

足元に転がる木材を飛び越え、崩れかけた塀をすり抜け、ただ前へ前へと進んでいく。
熱い。喉が焼けるように痛い。肺が悲鳴を上げる。

けれど、止まるわけにはいかない。

止まれば、終わる。

 

女の手を引き走り続けていた時だ。足元が、ふいに崩れた。視界がぐるりと反転する。重力が体を引きずり込む感覚。彼女の手がするりと滑る。
――やめろ、離れるな。

う叫ぼうとするが、声にならない。
全身が宙に投げ出され、自分たちは落ちていく。

 
 

――温かい。
うっすらと意識が戻り、まず最初に感じたのは、それだった。
火の熱ではない。じんわりと体を包み込む、穏やかでやわらかな温もり。草の匂いがする。土の湿った香り。鳥のさえずりが、遠くで響いているのが聞こえてきた。

ゆっくりと目を開けると、青空が広がっている。
雲が流れて、風がやさしく頬を撫で、つないだ手は離れていない、女は同じように転がっていた。


動けぬまま、気がつけば終わっていた。
呆然としたまま顔を向けると、見知らぬ男がこちらを覗き込んでいた。長い顎ひげを撫でながら、穏やかな表情をしている男性で、もう大丈夫だと、そう言って、にこりと微笑んだ。やさしくて、暖かくて安心する笑み。太陽のような温かさを持つ笑顔とは、きっとこういう顔をしているだろう。
それが山田先生と、山田夫妻との出会いだった。
 
 

山の中にぽつんと建つ、こぢんまりとした家。囲炉裏の煙がゆるやかに立ちのぼる。
そこには夫婦と、幼い少年が暮らしていた。

 

「あなたたち、いろいろあったのね。いまはここではゆっくりしていくといいわ」

 

最初は警戒していた。どこから来たのかと詮索されるのではないか、妙な目で見られるのではないか。ここに長くいるわけにはいかない。彼らにとって迷惑になる。

けれど、彼らは何も聞かなかった。
無理に問い詰めることもなく、ただ優しく接してくれた。
そして、息子である少年――――利吉くんは、最初は家族のピクニックを邪魔されたことに憤っていたが、しばらくするうちに何の遠慮もなく懐いてきた。

 

「お兄ちゃん!お姉ちゃん! 一緒に遊ぼう!」

にこにこと笑いながら、手を引っ張ってくる。
――こんなふうに、誰かにまっすぐに慕われるのは、いつぶりだったろう。
最初は戸惑った。けれど、日に日に彼の明るさに馴染んでいく自分がいる。


 

夜、囲炉裏を囲んで話をする時間が好きだった。
食卓を囲みながら、ぽつぽつと語られる何気ない話。
他愛のない会話が、こんなにも心を満たすものだったとは知らなかった。
彼女が彼らと共に楽しそうに笑う声を聞くと、それだけで安心した。

 

この生活が、ずっと続けばいいのに。そんなことを、ふと考えてしまうほどに、失ったものを取り戻せた気がした。もう大丈夫だと言われているようで。
このまま、ずっとここで暮らせたらいい。

山あいの静かな暮らしは、あまりにも穏やかだった。

朝になれば、鳥のさえずりとともに目を覚まし、軒先に干された布を取り込みながら、彼女と目を合わせて微笑みあう。囲炉裏の煙がゆるやかに上る中、山田夫婦が煎れる茶の香りが漂い、それだけで心が落ち着いた。

昼になれば、利吉が元気いっぱいに駆け寄ってくる。

「お兄ちゃん! 一緒に行こう!」

彼は無邪気に笑いながら、遠慮なく手を引く。山道を案内しながら、木の実の場所を教えてくれたり、川の流れを指さしながら魚がいると興奮したりする。その無邪気な様子が微笑ましくて、つい頭を撫でてしまうと、彼はくすぐったそうに笑った。

彼女もそんな利吉くんを優しく見つめ、時折、そっと彼の頭を撫でた。まるで実の母親のような、そんな温かさ。家庭を持つというのは、こういうことなのだろうか。そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。夕暮れ時、山道を歩きながら、彼女と並んでいると、自然と口元が綻んでいることに気づく。


「お兄ちゃん、なんかいいことあったの?」

ふと、利吉くんが不思議そうに覗き込んでくる。
少し驚いたが、すぐに笑った。

「……ああ、今がとても幸せなんだ」

そう答えると、彼女もそっと笑った。その笑顔を見ていると、言葉にはできない感情が胸の奥に広がっていく。今、この瞬間だけは、何もかもを忘れてしまっても許されるだろうか。


利吉くんは彼女にとてもなついている様子だった。母親に甘える様子とはまた異なる様子で彼女にべたべたとしていて、まるで姉に甘やかされる弟みたいだ。ちょっと近すぎるんじゃないかといえば彼は苦笑する。


「お兄ちゃんはお姉ちゃんのことになるとちょっと子供っぽい」

そんなことを言っていたが別にそんなことはないはずだ。




「よかったら、教師にならないか」

奥方が利吉くんと一緒に遊んでいる様子を見て、教員が向いているのではないかと言ってくれたのがきっかけらしい。山田先生の何気ない提案に、最初は戸惑った。教師だなんて、自分に務まるのだろうか。そもそも人に何かを教える立場になれるほどの器ではないと思っていた。しかし、先生はただ優しく微笑むだけで、それが妙に説得力を持って感じられる。
人を殺すことを生業にしていた自分が、人を教えるために弁をふるうなど、できるだろうか。



「できるかな……」

彼女に相談し、ぽつりと不安を漏らせば、傍らにいた彼女がまっすぐこちらを見つめた。

「大丈夫、あなたならきっとできるよ」

そう言って、少しも疑いのない眼差しで微笑んでくれる。彼女の笑みや、言葉には不思議な力があった。そう言われると、何となく本当にできるような気がしてくるから不思議だ。
教師としての日々が始まった。最初は緊張したものの、子どもたちの前に立ち、言葉を尽くして伝えようとするうちに、少しずつ心がほぐれていく。覚えの早い子、なかなか飲み込めない子、それぞれの顔が見えるようになり、工夫しながら教えることの楽しさを知っていく。慕ってくれる子供たちは無垢で、何も知らない無邪気さが、少しずつ心のわだかまりを解いていってくれる。

自分の居場所を、手に入れた気がした。

学園で頑張る一方、彼女も家で多くのことを学んでいるようだった。奥方と並んで台所に立ち、慣れない手つきで包丁を握る。縫い物に苦戦しながらも、教えられた通りに針を動かす。

「いろんなことを学んでいるの。まだまだ知らない世界ばかりだなあって、でも、いろんなことを知れて楽しい」

彼女はそう言って笑う。その姿を見ていると、なんだか誇らしい気持ちになった。彼女は前を向いて、確かにここで生きている。自分もまた、新しい道を歩み始めている。

幸せだった。
彼女と一緒にいられることが。
やがて彼女と同じ長屋に住み、仕事を終えて休みの日には家に帰る。そこには、いつだって彼女がいてくれた。




「おかえりなさい」

そう言って、彼女は迎えてくれる。
誰かが待ってくれているという事実が、こんなにも温かく、心を満たしてくれるものなのだと初めて知る。

なんて幸せなんだろう。
彼女と同じ屋根の下で暮らし、同じ時間を分け合って生きている。
そのことが、たまらなく愛おしかった。





長屋での暮らしは穏やかだ。朝になれば外から子どもたちの元気な声が聞こえてきて、それが目覚ましのような役割を果たす。土井がのそのそと起き上がると、先に目を覚ましていた彼女が火鉢の前に座り、朝餉の準備をしているのが見えた。火の揺らめきに照らされた横顔は穏やかで、黙々と作業を続ける姿にはどこか満ち足りた雰囲気で、以前はこんなふうに料理をすることなどなかったのだろうか。初めのころはよく指を火傷したり、包丁の扱いに苦戦していたりしたが、最近ではすっかり手際もよくなったようだ。土井が起きたことに気づくと、彼女は振り返ってにっこりと微笑み、「おはよう」と朝の挨拶をしてくれる。この時間が土井にとってはかけがえのないものだ。


「おはよう」

まだ眠気の残る声で返しながら、彼は身支度を整え食卓に向かう。湯気の立つ味噌汁に炊きたてのご飯、魚の焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐり、朝のひとときを実感させるのだ。こうして並んで食事をするのも、もうすっかり習慣になっていた。最初のうちはぎこちない部分もあったが、一緒に暮らしているうちに互いのリズムが自然と合うようになってきた。たまにしか返ってこれなくて寂しくしてはいないかと心配だが、彼女は土井の送った手紙を何度も読んで、帰りを待ってくれているらしい。

食事を終え、彼が教師の仕事に向かうために支度をしていると、彼女は玄関まで見送りに出てきてくれる。「いってらっしゃい」と微笑まれ、「いってきます」と返す。その当たり前のやり取りが、たまらなく心地よかった。


日中はそれぞれにやるべきことがあり、彼女は土井の不在の時はよく奥方のもとで家事を学びながら過ごしているらしい。裁縫の腕もめきめきと上達し、土井のために手縫いの小物を作ってくれることもあった。ある日、帰宅すると机の上に新しい手ぬぐいが畳んで置かれていた。端に小さな刺繍が施されており、それが彼女の手によるものだと聞くと驚いた。
彼女は気づかれると少し恥ずかしそうにしている。


「練習のつもりだったんだけど……どうかな」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。誰かが自分のために何かをしてくれる、それがこんなにも嬉しいことなのだと、この暮らしの中で改めて知った気がする。知らなかったことを知っていく。世界が広がっていく。


一緒に過ごした休日は夜になると、彼女は針仕事をしたり、本を読んだりして静かに過ごしていて、土井はその傍らで書き物をしたり、授業の準備をしたりする。時々、ふとしたことで言葉を交わしながら、それぞれが自分の時間を過ごしていた。静かな夜、油灯の灯りに照らされた部屋の中で、心が安らぐような静寂が広がる。ふと視線を上げると、彼女が針を動かしながら小さくあくびをするのが見える。


「そろそろ休んだら?」

見かねてそう声をかけると、彼女は驚いたようにこちらを見て、それからふっと微笑む。

「そうだね、そろそろ休もうかな」

彼女はゆっくりと針を布から抜き、糸を結ぶ。
土井もまた、その様子を見届けてから筆を置き、片付けを始める。こうして並んで寝支度を整え、部屋の灯りを落とすと、静かな闇が二人を包み込む。外からは虫の声や木々のざわめきが聞こえ、長屋の夜が更けていくのを感じさせた。こうして一年が過ぎていった。季節が巡り、暑さ寒さをともに乗り越え、互いの存在が当たり前のように寄り添うものになっていく。彼女と過ごすこの穏やかな日々が、ずっと続けばいいのに。土井は目を閉じながら、そう思った。


夜が更け、部屋の灯りを落とすと、闇の中に静かな吐息だけが響く。並んで横になった布団の中で、土井は眠れずにいた。暗がりの天井をぼんやりと見つめながら、微かに聞こえる彼女の寝息を耳にする。心地よい静けさだった。だが、それでも胸の奥に小さな不安が渦巻いてならない。


「眠ったら、全部が終わってしまう気がして、怖いな……」


ふと、ぽつりとこぼれた言葉。隣で眠りかけていた彼女が、そっと身を寄せる気配がした。布団の中で静かに身じろぎし、彼の方へと腕を伸ばす。

「君がいなくなる気がして恐ろしい」


小さくそう付け加えると、彼女は何も言わずにそっと抱きしめてくれた。
その腕の温もりが、ゆっくりと心をほどいていく。柔らかく、確かにここにいるという感触が、不安を溶かしていくようだ。



「私は、ここにいるよ」


耳元で囁かれる言葉が、胸の奥に染み込んでいく。そっと目を閉じ、彼女の腕の中に身を委ねた。この温もりを、ずっと手放したくない。
そう願いながら、ゆっくりとまぶたが重くなる。安心感に包まれながら、彼は静かに、穏やかな眠りへと落ちていった。

おわらないで

どうか終わらないで。




だれももう、これ以上私から奪わないでください。
これ以上をなにも与えてくれなくていい。
どうか奪わないでください。

どうか、どうか



どうか…………










土井はゆっくりと目を開ける。視界がぼやけ、頬を伝う温かな感触がある。涙だった。
息を整えようとするが、喉の奥がひりつくように痛む。静かな夜の空気が、やけに冷たく感じられた。目の前には見慣れた天井。木目の模様がぼんやりと揺らいで見える。

————ほら、夢だった。

胸の奥が締めつけられる。あまりにも鮮やかで、あまりにも幸福だった夢。まるでそこに本当にいたような感覚が、まだ指先に残っている。
彼女がそばにいた。笑っていた。自分を待ってくれていた。そんな日々が、確かにあったかのように——。

しかし、それは幻。なかった世界。

彼女は自分の手から零れ落ちて、川に流され消えたのだ。
土井は手の甲で目元を拭った。だが、涙はあとからあとからこぼれてくる。止めようとしても、止まらない。




「でも…………生きている」

掠れた声で、そっと言葉をこぼす。
死んだと思っていた彼女が、生きていた。それだけで、十分だ。どれだけ夢にすがりたくても、どれだけ過去を取り戻したくても、彼女が今ここにいるという事実だけは、決して揺るがない。

そっと瞼を閉じ、涙が乾くのを待つように、静かに呼吸を整えながら、もう一度確かめるように心の中で繰り返す。


彼女は、生きている。


それだけでいい。
そう自分に言い聞かせるように、土井はゆっくりと目を覚まし、今日を始めることにした。














リクエスト内容「抜け忍の土井先生と一緒に逃げ切れた話(夢オチ)」でした!

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