まだ薄暗かった。日が昇る前に目が覚めて、どうにも眠れなくなってしまったので少し遠くまで走ることにした。
気温はやや低いが、走るにはもってこいだ。体温が上がるので丁度よく、過ごしやすい。
この時間だからか、人通りも全くなく静かだった。自分の息遣いだけが、薄暗い朝の街にこだましていた。
_ふと、立ち止まった。何か聞こえた気がしたからだ。神経を集中させ、よく耳を澄ます。
六条三哲通り過ぎ 八条越えれば八九条
十条大路でとどめさす
その歌には覚えがあった。小さい頃、叔母が教えてくれた京都の手毬唄だ。
こんな所で、こんな時間に、鞠を。
一体、誰が。
そう思ったら、体が勝手に動いていた。声のした方へ駆け出していた。草をかき分け、茂みを越えて、小さな雑木林に入る。東京の街にこんなところが、と思いながらも走って進むと、開けた場所に人影が見えた。
「あは、ほんとうに来た」
そこに居たのは、和装の少女だった。茶色がかった長い髪を結い、鞠を胸の前で抱えていた。少し化粧を施しており、唇がほのかに紅く染まっている。
私は、声が出なかった。酷い耳鳴りがした。背中に氷水を浴びせられたようだった。
そこにいた彼女の顔は、私が嫌でも毎日見ている顔だったからだ。
―それは、私自身だった。
「手毬唄を歌っていればね、来るんじゃないかなぁって思ったの。うふふ、ほんとうに来たんだもの。びっくり。」
彼女は楽しそうに笑っていた。私は何かを言おうとしたが、喉が詰まって声が出なかった。
「お察しの通り、私は刀禰平冬樹。そして貴女も、刀禰平冬樹。」
「…、きみは、」
自分の声ではないみたいだった。嫌な汗が全身から吹き出た。目の前がチカチカしていた。
「ね、パラレルワールドって、知ってる?」
不気味だった。奇妙だった。逃げ出したかった。しかし、足は動かなかった。
「それはね、平行世界。私はそこから来たの。ふふふ。
ねえ、あのね、私が住む世界には、呪いなんて存在しないのよ」
「…え」
やっと発されたのは、その一音のみだった。なにを、一体、なんの話だ。わからない。なにも、わからない。
「それでね、それでね。貴女に聞きたいことがあるの。教えてね。
あなたは、どうして呪術師になったの?」
息が詰まった。彼女の声しか聞こえなくなった。世界に、私たち二人しかいないように感じた。頭がズキズキと痛んだ。耳鳴りが酷くなった。
「遊び?それとも、本気?」
彼女は笑っていた。しかしその目は、弧を描いてなどいなかった。
この質問には、答えなくてはならない。そんな、何か義務のようなものを強く感じた。
首を軽く振って、襲ってくる痛みや眩暈を振り払う。私は数回深呼吸をすると、はっきりと告げた。
「…本気だ。守るために、私はここにいる」
数秒の沈黙が流れた。その間も、私は彼女から目をそらさなかった。
「っふふ、あははははっ」
直に、彼女は笑いだした。口元に手を軽く添え、肩を震わせていた。同じ人間とは思えないほどに、上品だった。
「あー、おっかしい。貴女、嘘塗れね。」
一瞬、理解出来なかった。目の前が真っ暗になった。視界がぐわんぐわん揺れた。鈍器のようなもので、殴られた気分だった。
「見てればわかるわ。嘘ばっか。今のだって、まるで自分に言い聞かせたみたい。ふふ。カワイソー。貴女、ほんとうに可哀想。あはっ」
彼女の言葉は、なぜだか胸にグサリと刺さって抜けなかった。痛みがじわじわと広がり、私の心を侵食した。それでも、私は答えなければいけなかった。
「…君に、そう見えたのなら、そうかもしれない。しかし私は、自分の都合で何かを変えることを、許された人間ではないんだ」
彼女は目を見開いていた。数度瞬きを繰り返すと、そっと目を伏せて静かに呟いた。
「…そう、残念」
**
気がついたら、寮の自室のベッドに居た。体を起こすと、日は既に昇っていてカーテンから光が差し込んでいた。
「夢、だったのか……」
冬樹はそう思うことにした。夢だと言い聞かせて起きる準備を始める。
胸に残る妙な痛みには、見て見ぬふりをした。
「―え、春樹君、何よその格好」
「あ、バレた?椿さん鋭いね。オレ、女装も結構いける気したんだけどなぁ?実際バレなかったし。」
「………」