セピア調の晴天

いつものように家を出た。暖かかった。雨が降りそうでないことを、空を見上げて確認する。雲ひとつない晴天だった。かといって、どうということもなかったけれど。
高校までは歩いて少し。昨日の雨でできた水たまりをぴょんぴょんと跳んで避けながら、わたしは大きな道路に出た。学校はこの信号を渡ればすぐだ。
「……あ」
しまった、渡れない。
わたしは色がわからない。特に、赤と緑の判別が難しい。
わたしが普通の人と違う、というのは、ずっと前からわかっていた。けれど、うちは父さんも母さんも高齢でお金が無いから、日常生活で困らないなら、言わなくていいと思っていた。病院にかかるのだって、お金がいるもの。
いつもは誰かしら人がいるから、その人が渡ったら一緒に渡る、というふうにしている。けれども今日は、人っ子一人見当たらなかった。車ばかりがまばらに通り過ぎる。車だってたくさんいたら、ある程度信号の予想はついたのに。まばらにしか来ないから、赤なのか緑なのかわからない。
サイドエフェクトのおかげで、わたしは触ればなんとなくで色がわかる。赤はあったかい。青はほんのり冷たい。だから絵を描いたりするのは比較的苦労しなかった。でもだって、信号は触れないからなあ。
「ねえ」
突然背後から聞こえた声に、肩が大きく跳ねた。振り返ると、なんとなく見た事のある顔があった。同じ学校の制服だった。
「渡らないの?」
「あ、ううん、渡る、渡るよ」
「は!?ちょ、ストップ!!」
足を踏み出しかけたけど、腕を彼に強く引かれて、地面を踏まないまま後ろの彼にもたれかかった。瞬間、スポーツカーが目の前を、風をきって走り抜ける。肌の表面から、みるみる冷たくなるのがわかった。
「まだ赤だよ?」
なにしてんの、と彼は、わたしの背中を軽く押して体勢を整えさせてくれた。
「ご、ごめんなさい、ぼーっとしちゃってて」
頭を下げると、軽くぽんと頭を叩かれた。顔をあげれば、彼は信号機を指していた。
「ほら、青」
「あ、うん」
少し前を歩いた彼の横に、慌てて並んで歩いた。思い出した、この人、同じクラスだ。
「犬飼くん」
「お、正解。下は?」
「あ、あー…」
いくら記憶を掘り返しても、思い出せるのは前の席の子と、学級委員長と、おなじ委員会の男子と………だめだ、出てくる気がしない。
「ええと…あったかそうな名前…」
ぶは、と目の前で彼が盛大に吹き出した。肩を震わせて笑っていた。からからと、乾いた笑い声だった。ふう、と息をつくと、彼はもうわたしを見ていなかった。
「じゃ、答え合わせはまた今度ね。露草水芭ちゃん」
気がついたら、もう校門が見えてきたところだった。彼は前を歩くお友達を見つけたらしく、後ろから飛びかかっていた。
わたしの名前、覚えていてくれたんだ。というか、同じクラスなんだし覚えないわたしの方がおかしいのかも。
ああ、悪いことしたな。人の名前を覚えるのは、どうしても苦手だ。


「露草ちゃん」
「犬飼くん」
放課後。帰り道を歩いていると、後ろから声をかけられた。もうびっくりしなかった。
「また信号、人いなかったら困るでしょ?」
「あ、たしかに…ありが―」
―え?「人いなかったら」?わたし、人がいなかったから渡れなかった、なんて、言ってないはず。
目の前の彼は、貼り付けたような笑みを浮かべていた。その目は弧を描いてはいなくて、なんだか不気味な表情だった。
「当たり?」
「……どういうこと?今朝はちょっとぼーっとしちゃってただけだよ」
「色が判別できないんじゃない?」
どくん、と心臓が跳ねた。体に悪そうなくらい早鐘を打つ。周りの風景が、わたしと犬飼くんを取り囲んで、そこだけ残して夜の帳が降りたみたいだった。
「そんな、そんなことない」
声が震えた。彼の顔を見上げることすらできなかった。また、へんなひと、なんて言われるかもしれない。どうしよう―
ハッ、と思いついて、わたしは犬飼くんの顔を見上げた。
「わかるよ、色。これは青だし、これは…緑。こっちは…黒で、ええと…」
カバン、ストラップ、靴下、思いつく全てをさして色を言った。
「あ、これは赤!」
母さんが買ってくれた髪留め。犬飼くんはしばらく何も言わなかった。何も言わないまま、わたしの髪留めを見ていた。
「それ、黄色じゃない?」
ヒュ、と喉が鳴った。酷い耳鳴りがして、体と外の世界の繋がりが絶たれたような心地がした。
「うそ…」
「うん。ウソ」
「………………えっ」
上ずった声が出た。目の前の彼はやっぱり笑っていなくて、口角だけ上げてわたしを見ていた。
目の前が水蒸気みたいに白く曇って、彼の顔が霞んだ。彼は目の前にいるのに、ゆらゆらとカゲロウのように揺れて、静かに笑っていた。
「ウソウソ。それ、ちゃんと赤だよ」
「………ほんとに?」
「ほんと」
相変わらず、感情を悟らせない顔だった。背中をゾクリと何かが走った。虫唾でも、寒気でもない気がしたけれど。
でもよかった、母さんからもらったものの色すら知らないなんて、申し訳がたたないから。
「それ、先天性なら専用のメガネでなんとかなるらしいけど。早めに相談した方がいいんじゃない?」
ぎゅ、と胸の辺りに、強く殴られたような痛みが走った。そうした方がいい、とずっとどこかで思っていた。けれど、他でもないわたしの心が、そうしてはいけないと告げていた。だって、迷惑。迷惑になる。迷惑をかけてはいけない。わたしは邪魔者になる。邪魔になったら、どこにも、わたしの居場所が―
「ちゃんと言わないと。ご両親心配するよ?」
唾を飲み込もうと思った。けれど口の中はカラカラに乾いていた。唇が震える。カバンを握る手も、いつの間にか力がこもって、その上震えていた。
「大丈夫でしょ。露草ちゃんが思ってるほど、この世界は酷くないよ」
なぜだか、わたしにはわかった。彼は、ほんとうはそう思っていない。けれどはっきり言葉にしたってことは、わたしを、本気で安心させようとしてくれている。その意図は、わからないけれど。
「うん、わかった。ありがとう」
応えなければいけない、と本能的に思った。わたしは力強く頷いていて、こんなにはっきり自分の意見を言えたんだ、と少し驚いた。
彼はまたにっこりと笑うと、ひらひらと手を振って、角を曲がって行った。セピア調の世界の中で、彼の後ろ姿が小さくなるのを、わたしはずうっと見つめていた。


あれから一週間が経った。露草ちゃんは、その間学校を休んでいた。彼女の家は、おれの帰路の途中にある。必ず通る二階建ての赤い屋根の家だ。恐らく2階が彼女の部屋だろう。カーテンは閉まったままだった。
余計なお世話だったか、と一瞬考えて、まあいいかと思い直した。通り過ぎかけたその時、カラカラとガラス戸の開く音が、上から聞こえた。
「犬飼くん!!」
見あげると、彼女だった。首の広めのセーター姿だった。不自然な、ピンク色のカラーグラスをかけていた。なるほど、あれが専用のメガネ。
「見て!これ!!犬飼くんが言ってたやつ!これ掛けたらね、世界が変わった!!」
彼女はやや頬が紅潮していた。興奮気味に、ベランダから身を乗り出して、これでもかと言うくらいに声を張っていた。
「ねえ、あのね、わたし知らなかったの!!お花なんて興味なかった。空なんて見上げなかった!でもね、わかったの!!世の中、綺麗なもので溢れてた!!」
綺麗な翡翠色の瞳が、太陽の光を受けて一層輝いていた。ああ、彼女はもう大丈夫だ。
「見て、犬飼くん!今日の空だってとても綺麗だよ、雲ひとつない晴天なのよ!!
ねえ、澄晴くん!!」
一瞬、頭が真っ白になった。そういえば、下の名前の答え合わせ、とか言ったのをすっかり忘れていた。彼女は思い出したのか、確認したのか。
「澄晴くん、いい名前だね!好きよ!!」
満面の笑みでそう叫んだ彼女に、他意は一切なかった。ただ、昂った気持ちが彼女にそう言わせただけだろう。それ以上の感情は持ち合わせていなかった。お互いに。
「はは!照れるなぁ」
暖かい春の日だった。始まったばかりの新学期、スタートはいい走り出しだ。

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