湯気の立ち上るコーヒー、気に入っている作者の歴史小説。室温もちょうどよく、窓の外では寒そうに、すっかり葉を落とした木々が佇んでいた。夏の景色より、冬の景色の方が好きだ。殺風景な景色が、少ない色素が、視覚に対して騒がしくない世界が、見ていてとても落ち着く。
ペラリとページを捲る音、マグカップを机に置く音、風が窓を揺らす音。この部屋にはそれらの音しかなかった。静かな空間で読書をする。私にとって、これ以上の至福のときはないと思う。
そう思っていた矢先、トントン、とリズミカルに響いたノックの音に、私は鏡を見ずともわかるくらいに顔をしかめた。このノックは十中八九―
「ふーゆっきちゃん」
―春樹だ。
「何か用か」
ドアに対して背を向けて座っていた私は、振り返ることなくそう問うた。にこにこと頬を緩めに緩めまくる彼の顔が、視認せずとも想像できた。
「ねえねえ冬樹、オレのこと好き?」
「なんだ突然」
いや、そうでもないか。
口に出してから思ったが、特に突然というわけでもなかった。春樹が私に対して「好き」言うことはよくあるし、別段珍しい話でもない。それがただ問いかけに変わっただけだ。
「ね、好き?」
「はいはい、好きだよ」
ペラリと本のページをめくりながら答えた。私の視界に自分が映っていないことに不満を抱いたのか、春樹は私の顔を覗き込んだ。
「ねーえ、目ぇ見て言ってよ」
「後にしてくれ」
「えー、今がいいー」
勘弁して欲しい。今いいところなんだ。
ゆらゆらと体を揺らしながら、春樹が駄々をこねる。図体がデカい男がそんな動きをするものだから嫌でも目に入った。鬱陶しいことこの上ない。私は仕方なく、彼の顔を見た。
「愛してるよ」
これで満足しただろう。私は返答も待たずに、再び本に目を戻した。2、3行文字を目で追ったが、春樹が何か言う気配も、この場を離れる気配も全くない。傍に立たれるだけで気が散る。
「まだ何か―」
そう言いながら振り返りかけた。ぐん、と息が詰まった。春樹がポロポロと涙を流していたからだ。壊れてしまった機械のように。
「なっ……?!」
指先が冷たくなるのを感じた。本を読んでいたことも忘れて、そのままページを離して閉じてしまった。
春樹は溢れ出る涙を拭おうとすらしなかった。ただ静かにそこに立って、大きな瞳から雫を逃がしていた。
「ど、どうした?私が何かしたか?いや、それともどこか痛いのか?」
私が顔を覗き込むと、春樹はやっと我に返ったようだった。そして泣いていることに気づいて、慌てて手の甲で目を擦った。それでも涙は止まることを知らず、次から次へと大渋滞をおこしていた。
「ちが、ちがくて」
鼻声混じりに春樹が言った。懸命に春樹が首を振るから、私は黙って次の言葉を待った。握りしめた拳に爪がくい込んだ。
「あいしてるって、言ったから」
うれしくて、と、消え入りそうな声だったが、確かに聞こえた。
理解した途端、心配したのが一気に馬鹿らしくなった。
―しかし、一体どういう環境で育ったら、「愛してる」だけで泣けるんだ。
胸に杭を打たれたような痛みが走った。春樹は、きっと前の家で愛を与えられなかったんだ。春樹がどれだけ幸せを主張しようと、世間体から見たら、きっと「普通」ではない家庭だったんだ。
「…すまない、私が悪かった。言ってなかったからな。…春樹、」
彼は鼻水を垂らしたまま顔を上げた。私はその頭をくしゃりとかき混ぜる。双子なのに春樹だけデカくなったな。少し悔しいのは内緒にしておこう。
「私はおまえを愛しているよ。家族だろう?」
その大きな赤い瞳が大きく揺れた。眉を八の字にして、溢れる涙を拭わぬまま、春樹は口角を上げて笑った。
正面からもたれかかってきたその大きな体を受け止め、背中に手を回してやった。これだけ大きくて|逞《たくま》しそうな背中なのに、体は所詮単なる容れ物に過ぎないのだ。肝心な、見えないように隠した心は、何よりも傷つきやすくて壊れやすい、脆くて危うい割れ物だ。そういう生き物なんだ。刀禰平春樹という男は。
とめどなく体外へはじき出されていくその涙は、彼の過去に深く関わることだろうと、私は察していた。それ故に、「泣くな」なんて無責任な言葉を、私は掛けられなかった。
私に伝える権利があるのは、たったひとつだけ。
「大丈夫、私がここにいる。」