ショートホームルームが終わり、帰宅部の俺は帰ろうと生徒玄関に向かった。外は薄暗く、しとしとと雨が降り注いでいた。
ふと、下駄箱の前に立つ人影に気づいた。その人がこちらに気づいて振り返ると同時に、長い黒髪がふわりと浮く。
「涼宮、今帰り?」
「うん」
彼女は靴を履いているが、今すぐ外へ出ようという様子でもなかった。傘がないのかと思ったが、彼女は黒い傘を手にしていた。
「誰か待ってるの?」
「え?あ、まあね」
―あいつか。空閑を待っているんだ。すぐにわかった。特にどう思ったとかはないけど、手のひらに爪がくい込んで痛んだ。それで初めて、俺は今拳を握りしめているんだと気づいた。
「空閑でしょ」
からかいの意味をこめて言った。赤くなった顔でも見られたら、充分だと思った。
「うふふ」
彼女は、意味ありげに笑うだけだった。その笑顔は肯定だろう。それはいい。しかし涼宮は、赤面するどころか戸惑いや驚きすら見せなかった。ただ、ほんとうに幸せそうに笑っただけだった。
「ほんとにあいつのこと好きなんだね」
発された言葉には、いっぱいに皮肉が込められていた。ああお前、ほんとそういうとこだぞ。だからいつまで経ってもガキなんだ。情けない。
「からかってる?」
髪の毛先を指で弄りながら、彼女は上目遣いに首を傾げた。思わず目を背けた。そんな言い方をされたら、世の男は皆言い淀むだろう。下手すれば女性だって例外ではなさそうだ。
「好きだよ、ほんとに。」
彼女は目を伏せた。可愛らしい笑顔だった。他の人と比べたら大人びていて、どこか子供を逸脱しているような女性が。乙女の顔で、あどけない笑みを浮かべた。
その横顔は、あの男を想っているもので。
―何やってんだよ、俺は。
自分が何をしたいのか、何にこんなにイラついているのか、何もわからなかった。しかし心のどこかではわかっているんだろうと、俺はちゃんと理解していた。
「…涼宮」
「ん?」
他のことを考えたくて呼んでみた。俺を見上げる彼女は、やっぱり可愛かった。
話題なんか考えていなかったが、俺の中に、不思議と焦りはなかった。
「あ、髪に何か付いてる」
え、と彼女は手で髪を撫でた。
「チョークの粉かな」
「そうかも。今日日直だったから」
「じっとしてて」
艶やかな黒い髪には、散りばめられたチョークの粉が目立って見えた。数回優しく、撫でるように払い落とす。サラサラしていて手触りが良かった。なんで女子ってこんなにいい香りがするんだろう。
「取れたよ」
「ありがとう」
彼女はにっこり笑った。
―ああ、こういうところだ。
何かをしてもらったら、ちゃんとありがとうが言える。誰にだって分け隔てなく接して、いつだって笑っている。人より優れたものをたくさん持っているのに、それをひけらかしたり、自慢したりしない。人を褒めるのが上手で、それを進んで口に出せる。
そういうところなんだ。
その笑顔を向ける先が、俺だけであってほしいと、思えばそう考えたことはいくらでもあった。
あんなやつより俺の方が、ずっと君を見てきたのに。
「俺さ」
思ったより大きめの声が出た。周りに人が居なくて良かったと思った。
「好きだったんだよ、ずっと。涼宮のこと」
言うつもりなんてなかった。言わなくたっていいと思っていた。この好きがどんな「好き」かだって、自分で理解すらしていなかった。それでも俺は、俺を止められなかった。結局は俺も欲にまみれた、薄汚い人間だったんだ。
涼宮は、なにか言おうと口を開いた。しかしその口は空気を呑んで閉じられてしまった。彼女は傘を持った手に力を込めた。落とされた視線の先には地面しかなくて、俺は彼女の瞳に映れなかった。
「……………ごめん、」
ひゅ、と息が詰まった。綿か何かを喉に詰め込まれたような、首をぎゅっと絞められているような、そんな心地がした。
わかっていた。気づいていた。それなのに、じかに伝えられるその返事が、それほど苦しく感じるなんて知らなかった。
「…謝んないでよ、惨めになるじゃん」
声が震えた。だめだ、今ぜんっぜん余裕ない。
三回ほど深呼吸を繰り返す。俺たちを取り囲む静寂が、じわりじわりと神経の先端を侵食していた。
「ね、涼宮」
ぱっと顔を上げた彼女は、戸惑いの表情を浮かべていた。そりゃあそうだろう。悪い事をした。
「握手してくれる?」
彼女は首を傾げた。俺が差し出した手と、俺の顔を交互に見つめる。そして、そっと俺の手を握ってくれた。細くて華奢で、氷のように冷たい手だった。
あまり触っては彼女に悪いと思って、五秒くらいで離した。許されるなら、永遠にでも触れていたかった。
「ありがとう。全部忘れて?」
笑ってみせると、少し首を傾げて、そして曖昧に微笑んでくれた。
「ま―」
また明日、は傲慢だろうか。
「じゃあね」
「うん、バイバイ」
手を振った彼女は、もういつもの笑顔に戻っていた。ははあ、あれはよそ行きの顔なんだなあ、となんとなく思った。