「好きな人は、まあ、いました」
女子3人にやや気圧された様子で、碧葉はしかしはっきりとそう言った。その言葉にぼたん、静流、螢子の3人が目を輝かせたのは言うまでもない。
「ほんとかい!?」
「いた、ってことは過去の話?」
「どんな人?どんな人なの!?」
碧葉は俯いた。圧縮された記憶をひとつひとつ、丁寧に広げるように、しばらく黙り込んでいた。
「いや…あまり覚えていないんだ。顔も、声も、背格好も。何も覚えてない。ただ、どこか神秘的で、それでいて血なまぐさい雰囲気を纏った人だった」
「ふうん…」
誰が、というわけでもなく、相づちを打った。
「それ、いつ頃の話?」と静流が訊いた。
「それもわかりません。何百年も前のような気もするし、昨日のことのような気もするんです」視線を落としたまま、彼女はそう答えた。
何百年も前、という言葉に、ぼたんはギクリとした。彼女は知っていたのだ。碧葉が前世は数百年生きた妖怪で、その記憶を失っていることを。
―まさか、碧葉が恋をしたのは前世の話で、その記憶を失くした今でも、その相手を想い続けているのではないか。
ぼたんの中に、そんな仮説が浮かんだ。
「何かある?こういうことがあった、とか」
螢子が遠慮がちに聞いた。記憶がないのは驚いたが、しかし好奇心を抑えきれない、といった様子が伺えた。
碧葉はまた俯くと、静かに首を振った。
「具体的にはあまり…でも、そんなに触れ合うような関係ではなかったのは朧気に覚えてる。
…そう、定期的に、待ち合わせもなくある木の下に行くんだ。そうするとその人は必ずそこに居て、座ってくつろいでいる。その隣に木を隔てて私も腰掛けて、ただ黙って時間がすぎていく」
「喋らないのかい?」
ボロが出そうだと黙っていたぼたんも、思わずそう問いかけた。
「うん、喋らない。でも気まづいような沈黙ではないんだ。むしろ心地よかった。そして、たまに口を開くと|他愛《たわい》もない話をする。天気がどうとか、そんな話。」
へえ、とまた誰かが相づちを打った。
不意に、碧葉が「あ」と声を上げた。3人揃って彼女を見る。6つの視線に緊張したのか、「大した話ではないんだけど」と前置きした。
「あるとき、こんなことを言われたんだ。
『もし生まれ変わったら、お前はオレを探すか』って」
3人はゴクリと息を呑んだ。トキメキを隠せない、というように、瞳を輝かせていた。
「あ、ハッキリと言ったことはなかったけど、お互いがお互いを好いているんだな、というのは雰囲気でずっとわかっていて…それ故の問いだったんだと思う」
「で、碧ちゃんはなんて答えたんだい?」
ぼたんが問うた。碧葉はそっと視線を逸らす。頬はほのかに赤く染まっており、3人はさらに期待を膨らませた。
「探さないと思う、って…」
「どうして?」
螢子の言葉に、碧葉は口を開きかけた。しかし、すぐに空気を呑んで閉じられてしまう。何度か口の開閉を繰り返し、彼女はやっと言葉を紡いだ。
「『来世で偶然出会ってまた恋をする方が、運命的で素敵だから』、と…」
誰からともなく、きゃー、という黄色い声が上がった。静流が「やるじゃないか」と呟いたのを、碧葉は聞こえなかったことにした。
「他には??他には何かある?」胸の前で手を組みながら、螢子は訊いた。
「残念ながら、それしか覚えてない」
肩を落とす螢子とぼたんに、碧葉は申し訳なさそうに眉尻を下げて微笑んだ。静流はひとり、少し考え込んでいた。そして顔を上げると、顎に手をあてたまま問うた。
「記憶が無いのに、好きだったのはわかるのかい?」
碧葉も言葉を選ぶように黙り込んだ。おもむろに左手で右腕を軽く握る。彼女のクセだった。
「具体的な容姿とか、出来事とかは覚えてませんが…曇りの日に灰色の空を見上げた時とか、空き地に放られた壊れかけのおもちゃとかを見たときとか…崩れかけのものを目にすると、心臓が震えるんです。胸が焼かれているように熱くなって、締め付けられるように苦しくなって…よくわからないけれど、私は心のどこかで、始めからわかっていました。その感情が、恋なのだと」
「なんで崩れかけのものなんだい?」
「私にもよくわからないけど…崩れかけのものを見るときの感情と、その…恋が、2つの温度が似ているからだと思います」
静流は少し首を傾げたが、それ以上言及はしなかった。
そしてぼたんは、言葉を詰まらせながらも、自分が抱えているものを表現しようとする碧葉の姿に心を打たれた。適当なところで女子会が解散になった直後、すぐにコエンマの元へ向かったのだった。
***
「コエンマ様」
「む、ぼたんか。どうした?」
ぼたんは俯きがちに言った。
「碧ちゃんの、前世のことなんですけど…」
「ふむ?」
「記憶は完全にないんですよね?」
「ああ。碧葉が自ら思い出したいと思わんと、記憶は戻らん」
ぼたんは一度、きゅっと口を結んだ。そして深く息を吐く。そしてまたコエンマに問うた。
「どうしたら、戻りますか?」
「……何か記憶に関わる衝撃を与えるのが手っ取り早いが、良い方法とは言えんな。時を待つのが最善の策だ」
ぼたんは何か言いかけた。しかし、開きかけた口は、空気を呑んで閉じられてしまった。
「…わかりました」
「心配せんでも、名前さえ思い出せばあとはすぐじゃわい」
コエンマの言葉にいくらか安心したのか、ぼたんはこくこくと頷いて、コエンマに一礼した。
***
あの女子会から数日。碧葉の中に募る想いは、日に日に大きくなっていた。長い間内に秘めていたものを言語化したことで、より具体的な解釈を自分の中で見つけたためだろう。
それから、彼女はぼうっとどこかを見つめていたり、会話をしていても上の空だったりと、心ここに在らずというような様子だった。以前から「何を考えているのかわからない」と言われやすかった彼女だが、話しかけても反応しないことはなかったので、少しばかり心配されていた。
その異変にいち早く気づき行動を起こしたのは、同じ盟王高校に通う碧葉の一つ下の後輩、南野秀一である。
「碧葉さん」
屋上で昼食の菓子パンをかじっていた碧葉の元に、南野が姿を現した。しかし彼女はまだ上の空で、今にも雨が降り出しそうな灰色の空を見上げ、ぼうっと何か考え込んでいた。
「碧葉さん」
「わっ」
南野がもう一度呼びかけて、碧葉はやっと気がついた。彼は目を細めて微笑すると、彼女の隣に腰を下ろした。
「こんなところにいたんですね」
雨が降りそうですよ、と言って彼が微笑むと、碧葉はじっと南野を見つめた。初めて見るものを観察するような、そんな瞳だった。
「あの…オレの顔に何か付いてます?」と南野が訊くと、碧葉はハッと我に返る。慌てて目を逸らして、菓子パンの咀嚼に戻った。
「……すまない」
「いえいえ」
2人は黙って、しばらくそうしていた。碧葉は相変わらず空を見上げ、南野は彼女の横顔を盗み見ていた。
「何か悩み事ですか?」南野は言った。碧葉は彼の顔を見た。
「どうして?」
「最近何を言っても上の空でしょう」
碧葉は彼から目を逸らし、じっと宙を見つめていた。言葉を選んでいるのではなく、〈どう誤魔化そうか〉と考えている沈黙だと南野は察した。
「恋煩いですか?」
冗談めいた調子で言った。しかし碧葉はクスリとも笑わず、かといって慌てて否定する様子もなく、ただじっと一点を見つめたまま「まあね」と返した。
南野は、ヒュ、と息が詰まるのを感じた。綿か何かを喉に詰め込まれたような、首をぎゅっと絞められているような、そんな心地がした。
まったく気づく様子もなく、碧葉は続ける。
「私にもよくわからない。相手はもう死んだかもな」
投げやりな口調だった。彼女のその表情はいつになく悲しげて、寂しげで、今にも泣き出しそうに見えた。
「オレじゃダメですか」
口が勝手に動いていた、とでも言おうか。南野当人もなぜ今そんな言葉が出たのかサッパリ理解できなかった。彼は以前から碧葉に、恋愛的なものかはさておき、好意を抱いていた。彼は今やっと得心がいった。今まで尊敬や友情といった類のものだと思っていたそれは、恋愛感情だったのだと。
「からかってる?」
薄い笑いを浮かべ、しかし悲しそうに彼女は言った。南野はゆっくりと、首を左右に振る。
「本気です」
碧葉は当惑した。目の前のその人が何を言っているのか、なぜそんなことを言うのか、よく理解できなかった。しかし彼女の口元には既に、薄い笑みが浮かんでいた。
「君もずるいね」精一杯皮肉とからかいを込めた言葉だった。これで引き下がってくれればいいと。
「ずるくていいです」語気の強さを含めて、彼は言った。
「傍にいられれば、それでいい」
碧葉は目を見開いた。その言葉が彼女の中で、二重の声で反芻される。
同じ言葉を、ずっと前に、いつか、どこかで。
「…はは」
碧葉は俯いた。ぎゅっとスカートを握りしめる。灰色の空。食べかけの菓子パン。崩れかけのものたちがそこにはあった。しかし、それまでに感じていた苦しい感情は押し寄せてこなかった。ただ、夏に縁側で静かに揺れる風鈴のような、梅雨時期に雨に打たれるアジサイのような。そんなゆったりとした、それでいて暖かい何かを、確実に胸に感じていた。
碧葉は俯いたままだった。顔を見せまいとしていたのだろう。眉尻を下げて口角を上げ、頬をほのかに赤く染めて微笑んでいた。
「君は、私が好きだった人によく似ている」
とても喜ばしいこととは言い難かった。しかし、碧葉が壊れそうな様子ではなくなったので、南野は安堵して微笑を浮かべた。
彼はおもむろに空を見上げた。相変わらず降り出しそうな天候だったが、なるほど、良い天気だと言うべきかもしれない。