薔薇、香る。

気だるいくらいの快晴だった。蒼く温い風が吹き、木々の隙間を通り抜けて、川原に腰掛ける2人の肌を満遍なく撫でた。
雲ひとつない晴天の中、2人は遠くで揺らめくカゲロウを後目に、涼しげに流れゆく川をただ眺めていた。
「ねえ、蔵馬」
不意に、碧葉が言った。彼女の、女性にしては低いハスキーな、しかしよく通る声にはザラつきが一切なく、風や雨のような自然音のように思えた。その滑らかな声は、周囲の音に囲まれ浮き彫りになることもなく、まったく丁寧に自然の中に馴染むのだ。
蔵馬は彼女の顔を見ないまま、「どうかしましたか」と答えた。碧葉は横目で蔵馬を盗み見る。彼が言葉を紡ぐ度に震える喉仏が、碧葉は好きだった。
「変なことを言うのだけれど」
蔵馬は何も言わないまま、沈黙することで先を促した。碧葉もそれを察したが、言葉を選んでいるのか黙り込んでしまった。口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返し、ようやく言葉にした。
「私さ、たぶん、好きなんだ。君のこと」
蔵馬は、ゆっくりと碧葉の顔を見た。瞳孔が大きく開き、微かに揺れていた。碧葉は少しも顔色を変えることなく、蔵馬の翡翠の瞳を見つめ返した。
「正確に言うと、今の君じゃなくて、前の君。妖狐だった君。」
蔵馬は息を呑んだ。彼女はまだ、かつて自分が妖怪であったことを思い出していない。しかし、心は気づいているのだ。目の前にいる南野秀一という男が、自分がかつて心を奪われた妖狐であることに。
そして蔵馬は、それらの事実を瞬時に悟った。
「昔のオレなんですか」
笑い混じりに言った。
「今のオレじゃだめなんですか?」
今度は碧葉が驚く番だった。数回瞳を瞬くと、フッと目を逸らしてしまった。
「さあ、どうだろう。考えたことないな」
「じゃあ考えてください」
蔵馬は碧葉の肩を抱いて、自分の胸に引き寄せる。そのまま、彼女の灰色の髪をふわふわと指先で撫でた。
「オレは、今のあなたが好きです」
―もちろん、昔のあなたも。
心の中でそう付け足した。
それを聞いた碧葉は、初めて口元を手で押さえた。蔵馬からは見えなかったが、彼女が照れていることは容易に察することができた。
「嫌じゃないですか?」
抱き寄せたまま蔵馬は問う。碧葉は考え込むように押し黙った。そして、バラの香る彼の胸に、ほんの少しだけ頭を寄せた。
「嫌じゃないよ。いい匂いするし」碧葉は言った。「碧葉もいい香りがしますよ」蔵馬もそう返した。
「もっとくっついてもいいんだよ」
やや上目遣いに碧葉が言うと、蔵馬は「では遠慮なく」と今度は正面から抱きしめた。ややあって、碧葉も彼の背中に手を回した。
「君の背中は大きいね」
「碧葉は小さいですね」
2人は黙って、しばらくそうしていた。彼らは沈黙の間、過去を振り返っているのかもしれなかった。或いは、目の前の大切な人と過ごせる時間を、噛み締めているのかもしれなかった。
「暑くないですか?」
「暑いね」
言ったものの、ふたりして抱きしめた手を緩めようとはしなかった。
「暑いけれど、不快な暑さじゃない」蔵馬の胸に頭をぐりぐりと押し付けて、碧葉は言った。「奇遇ですね」と蔵馬も言った。
「オレも同じことを思っていました」

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