本の匂い。カウンターの木の匂い。ペンのインクの匂い。それから、花っぽい柔軟剤の匂い。
今週も残すところあと二日。週交代の委員会の仕事ももうちょっと。うだうだ言わずにちゃんとやるか。
「あ、あのう」
カウンターの隣の席から控えめな声が聞こえて顔を向ける。夕焼けに照らされた黒い髪が、傾げた首に合わせてはらりと肩から落ちた。
「私、星がすきなんです」
なんの話かピンと来ない。次の言葉を待っていると、どうやら向こうの想定では、その一言に俺が返事をする流れだったらしい。場の空気まで一瞬固まる。
「え、ええと、お互いのことを知ろうと思って、それで、まずはすきなものかなー、なんて…」
どんどん俯いて顔が赤くなる姿をみて、なんだか俺まで焦りがでてくる。いや、しかし流石に言葉が足りない。気持ちはわかる。
「星が好きなんすね」
彼女がパッと顔を上げて、こくこくと首を縦に振る。思わず小動物を連想した。
「マンドリカルド君は、ある?すきなもの」
「あー、俺は…………特にないっすね」
えっ、と彼女が言って、また焦るように両手を膝の上で組んだりほどいたり。
「じゃ、じゃあ趣味とか」
「趣味…………特には…」
さっきまで明るかったはずの表情が一瞬にして曇る。
「じゃ、じゃあ部活とか…決めてる?どこか入った?」
「いや、入るつもりは……」
うわ、我ながら陰気。彼女は俯いて目を泳がせて、「ええと、じゃあ、」と会話の先を絞り出そうとしていた。
「あー、んと……アンタは天文部すか」
これで会話が繋がる、と思いきや、彼女の顔は暗いままだ。俯いたまま、蚊の鳴くような声の返事だった。
「この学校、天文部なくて……」
詰みだ。空気が重い。潰れる。けどたぶん、そう感じてるのは向こうも同じで、それを覚悟で向こうはコミュニケーションをとろうとしてくれたわけで。ここで、俺が繋がなければ。俺が……できるか?
「おつかれ〜」
突如ふりかかってきた声に、二人して肩を震わせる。声の主は司書の先生だった。声が綺麗で…美人、だと思う。
「人来なくて暇でしょ。昼休みはわりと賑わうんだけどね」
図書館で賑わうってのも変な話だけどさ、と言いながら、オフィスチェアを司書室から引いてきて、ちょうど三角形になるように、一歩引いたところに腰掛けた。
「こんなんじゃお喋りくらいしかやることないでしょう」
「そうっすね…」
俺たちがコミュニケーション苦手という事実を知ってか知らずか、先生が朗らかな笑顔と滑らかな声でさらさらと言葉を紡いでいく。これくらい流暢に喋れたらいいよな。
「あ、そういえば。もしかして君たち、本棚整頓してくれてる?」
彼女と少し顔を見合わせて、二人で頷く。カウンターにいなかったのはやっぱり問題だっただろうか。
「ありがとう、とってもすっきりした。整頓されてると、見てて気持ちがいいものね」
にこりと微笑んだ先生に、俺は密かに胸をなでおろした。どうやら咎められることはなさそうだ。
「ここ広いから、先生ひとりじゃ手が回らなくて」
整った眉を下げてまた微笑む。表情が豊かなのに、どんな顔をしても整った綺麗な顔立ちが崩れない。一部…というか、かなりの数の男子生徒に人気があるそうだが、その気持ちがわかる気がした。
「あっ、あの」
しばらく黙っていた彼女が小さな声で言う。
「お手洗いに行ってきます」
一際小さな声で先生にそう告げると、先生の「行ってらっしゃい」という返事と同時にパタパタと出ていった。
「なんとなく上手くやってるみたいだね」
言葉の真意が上手く掴めなくて、先生の言葉を待つ。
「ほら、ふたりで本の整理とかしてくれたんでしょ?」
「あー……そう、っすね」
「なあに、あんまりうまくいってない?」
「……まあ、はい」
ふうん、と先生が言って、緑の目で射抜くように見つめられる。
なんとなく、落ち着かなくて、膝の上で握った自分の拳を睨んだ。
「ま、なんとなくやってこ。世の中の大抵のことはなんとかなる。なんとでもなる。」
「大雑把っすね」
言ってから、しまったと思った。頭に浮かんだことをそのまま口にしてしまった。けど、先生は怒るどころか、笑った。クリスマスプレゼントをもらった少年のような、楽しそうな顔で。
「そ、大雑把。あたしのモットー」
大雑把。それがモットー。
心の中で噛み砕いていると、先生が、さて、と言って立ち上がった。
「じゃ、先生お仕事してくるから。閉館時間にまた来ます、ここよろしくね」
「了解っす」
ひとりになったカウンターで、頬杖をついて考える。
大雑把。それがモットー。
なんでも深く考えすぎる俺には足りないものだと思う。そんで、あの先生は人のことをよく見てる。気をつかってかけてくれた言葉なんじゃないかと、思えなくもない。
しばらくして、扉を開ける音が聞こえた。
「あれ、先生は…?」
「仕事があるらしいっす。閉館までには戻るって」
「そっか、ありがとう」
なんとなく、違和感があった。戻ってきた彼女の、雰囲気?表情?なんか、どことなく、不機嫌というか、怒ってる?
「あー…」
組み立てきれていない言葉を、そのまま発した。彼女が俺の方を向く。あれ、気のせいかもと思った。
「あ、いや、…なんでもないっす」
俺なんかに聞かれても困るかもしんないし、もし悩みとかでも、俺じゃ何もできない気がするし。気のせい、かもしんないし。
散々迷って、迷って、結局聞けないまま、今日が終わった。