幸せをもう少しだけ……
怪我なんかしちゃ駄目だよ――
病気もしたら駄目なんだからね――
僕よりも先に死んだら、駄目だよ――
お願いだから、僕の目の前からいなくならないでね――
「ただいまぁ!」
「あ、郭嘉、お帰りなさい」
幽州の平定も終わり、郭嘉は関羽を連れて曹操のもとへと戻った。
関羽は頭の包帯も取れ、耳のあった個所にはたわわに髪の毛が生えそろっていた。
十三支は身体的な成長も早いのかな――?
関羽の頭を見つめながらいつも不思議に思う。耳を切った個所も人間とは違い、驚く程の治癒力を発揮していた。
部屋の中を見回した郭嘉の視線にあるものが映る。
「姉さん、また外に出たの?」
郭嘉の視線の先にあったのは、市場で買い込んだのであろう食材の山。
「だって、いつもあなたはお腹が空いたぁって言って帰って来るじゃない」
「食材なら僕が買って来るっていつも言ってるじゃん」
郭嘉が不機嫌な表情を浮かばせながら言葉を吐き出す。
最初は薬を使って関羽の心を支配していたが、今ではもう、それをしなくても良くなっていた。
完全に忘れたわけではない。しかし、以前のように魘されることが少なくなったのだ。
薬もあまり使い過ぎては身体に毒である為、よっぽど酷く魘された時だけ薬を使用していた。
郭嘉は関羽を自分の姉に仕立て上げた。
幼い頃から大好きであった姉は、夜盗によって命を奪われた。
姉は弱かったから――
家族は皆、弱い者だったから、彼らよりも強い者に命を奪われたと郭嘉は自分に言い聞かせた。
だから――
弱い者はこの世に生きていては駄目なのだと、郭嘉の心には歪が作られた。
曹操軍にとって敵であった関羽は強かった。そして郭嘉の姉によく似ていた。
郭嘉が関羽を初めて見たのは、鳥丸討伐に向かう時であった。
あの曹操に歯向かう関羽を見て、少しの興味を持った。それに、曹操もまた、そのような関羽を楽しそうに見つめている。
曹操にあのような表情をさせる女、関羽。恐らく、曹操は関羽を強者として認めているのだろう。
女なのに強い――
猫族が住まう里から出る時、郭嘉の視線はずっと、関羽の方にあった。
「今日のご飯は何なの?」
「ふふっ…… それはできてからのお楽しみね」
「ええっ! 教えてよぉ!」
「駄目よ」
匂いで何を作ってくれているのかは分かる。しかし、郭嘉は関羽に甘える為に分からない振りをする。そのような郭嘉を愛おしそうに見つめる関羽。
郭嘉は今、本当に幸せだった。しかし、その幸せを感じると同時に今は不安がある。それは、今日行われた軍議の最中のできごとであった。
「今朝がた、北方に向かわせていた間者から報せがありました」
「ほう…… で、十三支たちは見つかったのか?」
「はい……」
吉報に曹操の口元が緩む。それを見た郭嘉の心の中に小さな軋みが起こる。
夏侯淵には関羽が死んだと伝えた。しかし、曹操は関羽の死を認めてはいなかったようで、まず北方に逃げた十三支の行方を探させたのだ。
「その中に十三支の女の姿はありませんでした」
「そうか……」
間者からの報せの内容を聞いた郭嘉が誰にも聞かれないように小さな吐息を放つ。事実、隣にいた夏侯淵にさえ聞こえなかったその吐息が、かなり離れた曹操は聞き逃さなかった。
何も言わない曹操の視線が郭嘉を捉える。その視線を感じた郭嘉は顔を上げ、表情を強張らせた。
「郭嘉……」
「はい、曹操さま…… 何でしょう?」
普段通りの軽い自分でいなければと思うのに、声が震えそうになる。だから、心の中で落ち着けと命令を下しながら曹操の呼びかけに応えた。
「お前は夏侯淵に言ったそうだな? 関羽は死んだと……」
「はい、確かに僕の目の前で死にましたよ」
曹操の濡れ羽色の瞳が鈍く光る。郭嘉は怪しまれないようにその恐ろしいと感じる目を見つめ返した。
「そうか、分かった……」
曹操は何か感じたのかもしれない。しかしそれ以上、何も聞かずにこの時の軍議は終了した。
「姉さん、あまり外に出ては駄目だよ」
「どうして……?」
郭嘉に心を制御されてしまった関羽。しかし身体に宿る本能的な記憶は覚えていたようで、怪我が治って薬もずっと必要でなくなった時から、外で身体を動かすようになっていた。
最初は誰かに見つかってはと心配したが、郭嘉は許昌の宮廷からかなり離れた場所に家を建て、誰にもそのことを伝えなかった為に、関羽を知る者がこの家にやって来ることはなかった。だから、関羽が少し離れた市場へ買い物へ行ったとしても、あまり気に留めないようになっていた。
「ここは都だからね。外から入って来る者も多いし、姉さんみたいに綺麗な女の人は連れ去られちゃうよ」
「ふふ、私は強いのよ」
郭嘉の心配の言葉に笑いながら答える関羽。
強いのは確かだ。外で鍛錬なるものをしている時の関羽は生き生きとしている。普通の雑魚ならば、関羽はきっと倒すだろう。しかし、曹操に見つかったとしたら――
郭嘉は関羽の手を自分の両手で包み込んだ。
「姉さん、暫くの間は家の中にいて欲しいんだ」
郭嘉の言葉に関羽は首を傾げる。
「どうして……?」
「どうしてもっ!」
郭嘉の言葉に納得ができないのか、関羽は更に首を傾げた。そして郭嘉の顔を覗き込むと、両手を伸ばして目の前の郭嘉を優しく抱き締める。
「郭嘉、私はあなたの前から絶対にいなくならないから…… そのように不安な顔をしないで」
暫くの間、抱き締めた郭嘉の身体を解放した関羽が微笑む。
「さあ、もうすぐご飯もできるわ。それに郭嘉、あなたはきっと疲れているのよ。毎日朝早くから夜遅くまで仕事をしているのでしょう? だから、ご飯を食べて、今日は早く寝ましょう」
関羽の言葉に、郭嘉は幼い頃に姉に言われた言葉を思い出す。
郭嘉、遊び過ぎて疲れているのよ。今日はご飯を食べて早く寝ましょう――
郭嘉は遊び過ぎて疲れてしまうと、いつもぐずっていた。そのような郭嘉を姉はいつも笑ってこう言ってくれたのだ。そして、夜は同じ布団で引っ付き合って眠った。
大人になった今でも、郭嘉の心の中にはその記憶があった。関羽に出会う前までは、その寂しさを払拭するかのように、毎晩女を取り換えて遊んでは眠った。しかし、今の郭嘉は女遊びもしない。そして、周りの味方の者たちでさえも目を覆うような殺戮もしなくなった。
それは、郭嘉の心が満たされたから――
関羽の中に既に死んだ姉を作り上げて、それが見事に成功をしたからである。
そのような郭嘉の変貌を不思議がる者が幾人かいた。それは夏候惇、夏侯淵、そして賈栩である。
普段の郭嘉ならば、女との夜遊びのせいで朝は遅刻ばかり。昼間はしっかりと働いていても、夜になると許都内をふらつき歩き、その場で意気投合した女と共にする。しかし、郭嘉は一人の女に執着するわけでもない為に、毎日のように城門前には郭嘉を出せと言う女たちが絶えなかった。その女たちの中には城門前で小刀を振りまわす者や気が触れたような叫びを上げる者も多く、その対応をするのはいつも夏候惇であった。しかし、それもいつの間にかぱったりとなくなってしまい、面倒臭いことをせずに済むと胸を撫で下ろすと同時に、郭嘉の生活の変わりように夏候惇は疑問を持っていたそのような時、
「そういえば…… 幽州に行った時に言っていたな。家族ができたって…… 家も別の所にあるみたいだったよ」
賈栩が思い出したと言って、その話を夏候惇と夏侯淵にする。それを傍で聞いていた曹操が両目を細めながら静かに口を開いた。
「郭嘉は幼い頃に家族を全て失ったと聞いたが? それにあの者の故郷は豫洲であろう」
「しかしあの時、確かに家族がいるからと言っていましたよ。嫁を貰ったのかと聞いたら、そんなんじゃないと言っていましたがね。そういえば家のある場所も教えてくれなかったなぁ…… まあ、あの時の郭嘉は何というか…… 今も思いますが、表情に棘がなくなったというか…… あの頃から日常的なお遊びもなくなりました。お陰で多くの死体の始末をしなくても良くて楽だったのを覚えていますよ。村一つを殲滅しないと気が済まない郭嘉が、鳥丸討伐の折はそれがなかったですからねぇ」
女遊びもなくなったのならば、恐らく郭嘉が傍に置いているのは女――
曹操の脳裏に一人の女の姿が浮かび上がる。
関羽はどの武将にも欲された。彼女には何か惹き付けるものがあったのだ。
弱い者は皆殺しにする郭嘉も、あの関羽を見たらもしかすると――
「夏候惇……」
「はっ!」
曹操が名を呼ぶと、夏候惇が目の前で姿勢を正す。
幽州でも他に家を持っていたのだとすれば、この許都にもそれがあるはず――
「郭嘉の動向を探れ……」
郭嘉は素晴らしい軍師であるが、あの関羽を囲っているのならばそれは取り返さなくてはならない。
あの関羽は――
曹操はゆったりとした動きで口元を緩める。
私のものだからだ――
武将としても素晴らしいが、あの娘には他の者たちにはない厚い人徳がある。最初は十三支の女だと蔑みながらも、あの娘に関わった者は皆、腰抜けになるくらいにあの娘に従順になる。そして、曹操もその中の一人であった。
「もしも、郭嘉の家らしき中に関羽の姿があれば、あの者の同意は必要ない。すぐに私のもとへ連れて来るのだ」
「では、あのお嬢さんは生きていると…… 曹操さまはそう思っていらっしゃるのですか?」
賈栩の問いに、夏候惇と夏侯淵が息を呑む。
「しかし、趙雲が殺された後にあの女も殺したと言っていたのではないのか?」
「まあ、嘘はいくらでもつける…… それも軍師の得意とするものだからねぇ。味方から欺くってやつかな?」
夏候惇も夏侯淵も関羽のことを十三支の女と言って嫌っていた。しかし、関羽を曹操があまりにも執着しており、彼女が傍にいるだけで曹操の機嫌も良かったことを思い出した。
「兄者……」
それでも関羽が生きていたとしても、曹操の傍に置くことを渋る夏侯淵に、夏候惇は静かに答えた。
「…… 曹操さまの為だ」
それに夏候惇の中には関羽の武力を認めているところがある。ただ、女であれだけ強いというのに、戦いは嫌いだとやら難癖をつけては本気を出さないことに苛立ちを感じていた。
「仲間を助ける時だけにしか発揮しない、本当の力…… その仲間は北方に逃げたからな…… 捕えた後は曹操さまの為に使ってもらう……」
そして、いつか対決をして、どちらの力が上かを決めるのだ――
夏候惇は奥歯を強く噛み締めた後、曹操の命令通り、郭嘉を見張ることにしたのであった――。
「じゃあ、僕はもう帰りますね」
城での仕事も終え、郭嘉が早々と帰り支度を整える。傍で様子を窺っていると、郭嘉から鼻歌らしきものまでもが聞こえてきた。
「その歌は何だ?」
夏候惇がさり気なく聞いてみると、郭嘉が今までに見たことのない笑みをこちらへ向けてきた。
「ああ…… 僕も最近覚えたんですよ。何ていう歌ですかね?」
「誰かに教えてもらったのか?」
これもさり気なく聞いてみると、家に戻るのが楽しくて仕方がないのか、郭嘉の口は滑らかな動きを起こす。
「ええ、一部でしか聞くことができない歌らしいですけど」
郭嘉はそう言うと片手を振りながら部屋を出て行く。
「一部でしか聞くことができない……?」
言い換えれば、ある種族の中でしか歌い継がれていないとも受けることができる。それに、あの旋律に夏候惇は聞き覚えがあった。
確か、十三支の女が――
まだ猫族が曹操軍の配下にいた時、関羽が口ずさんでいたのを夏候惇は思い出したのだ。
劉備を曹操の屋敷に人質として置いていた時に、関羽はよく劉備に会いにやって来ていた。その時に劉備を寝かせる為だろう。
夏候家から珍しい菓子が送られてきた時に、劉備にも食べさせてやろうと持って来た夏候惇は、部屋の中から関羽の歌声を聞いた。
「その歌は何だ? 聞いたことがないな」
そっと扉を開き、劉備の部屋に入った夏候惇が関羽に尋ねる。
部屋に入って来た夏候惇の姿を見た瞬間に、関羽は歌うのを止めた。
「何をしに来たの?」
劉備を抱きしめながら睨みつけてくる。あの時、夏候惇が劉備に何かをすると勘違いをしていたらしく、目の前の関羽は警戒心を露わにしていた。
「俺の実家から珍しい菓子が届いたから、劉備にも食わせてやろうと思って持って来ただけだ」
夏候惇は大きな溜め息を吐き出しながら、手に持っていた菓子を机の上に静かに置いた。それを見て、関羽は安堵の溜め息を吐き出し、まだうつらうつらとしている劉備の身体を優しく揺らしながら、先ほど歌っていた歌を口ずさみだした。
十三支を至極嫌っていた夏候惇であったが、あの時の関羽から目を逸らすことができず、結局、劉備が眠るまで部屋に留まり、その後は二人で部屋を出たのだった。
戦の最中では凛々しい姿を見せ、森の中で猛獣に襲われそうになれば果敢に向かって行く。男勝りの関羽の姿からは想像ができない程に美しい声音であったのが印象的であり、覚えていたのだ。
「…… 間違いない。郭嘉が囲っているのはあの、女だ……」
夏候惇は間者の一人を呼び、郭嘉が戻る場所を突き止めろと命令を下す。
口ずさむことができるくらいだ。郭嘉は恐らく、関羽に対して酷いことはしていないだろう。普通に暮らしているのならば、曹操軍に再び戻した時に一緒に戦うことができる。嫌だと言いながらも、自分と共に戦う兵士たちを見捨てることができない関羽は、自分の中にある力を戦の中で発揮するだろう。
しかし、何故だろう――
何か嫌な予感がする――
関羽の性格ならば、郭嘉の所に囲われても自力で逃げ出そうと努力をするはずだ。しかし、それをしていないとなれば、今、身動きができない状態なのだろうか?
夏候惇は脳裏に関羽の姿を思い浮べながら、嫌悪している十三支であるはずなのに、無事でいて欲しいと願ってしまっていた――。
関羽と暮らし始めた郭嘉は、幸せな気持ちが大きいせいか、気持ち的にも少し隙ができていた。その為、いつもならば自分の後をつけてくる者に対しても敏感に反応を起こしていたのに、今回はそれに気づかなかった。
「ただいまぁ…… 姉さん!?」
家に入ると、郭嘉は家の中の異常に気づき、部屋の中に飛び込む。すると、暗がりの中で関羽が頭を抱えて苦しんでいた。
床に蹲っている関羽に駆け寄った郭嘉がその身体に覆い被さるように抱き締める。
「姉さん! どうしたの!? また頭痛がするの!?」
「か、郭嘉…… だ、大丈夫…… 大丈…… 夫だから……」
「顔が真っ青だよっ! ああ、汗も……! 薬を飲まなきゃ!」
「い、要らないわ…… 薬は要らないっ!」
「駄目だよ!」
「い、要らないの!」
最近は薬を常用しなくても良くなっていたが、時折関羽にはこのような症状が起こる。その時だけは薬を使用するのだが、関羽は以前よりもそれを飲む事を強く拒絶するようになっていた。
薬を飲まなくなってから、関羽の記憶が少しずつ蘇り始めた。それはまだ曖昧なものではあるが、少しずつ自分が何者かを分かり始めていた。そして勿論、郭嘉が何者だということも、自分が何者かということも――
それでも関羽はもう、ここから逃げるつもりはなかった。
夢の中で殺された男が、自分の愛した者であることも既に分かっている。
趙雲――
命が終わる前に、何度も関羽に、済まないという言葉をかけていた。そして、郭嘉に捕えられた関羽は、猫族の象徴でもある耳を切り取られたことも思い出していた。
最初は本当に自分が郭嘉の姉だと信じて疑わなかった。その後、関羽の毎日の状態を見て郭嘉も安心をしたのだろう。薬を常用するのを止めた。
その後からだ。関羽の夢の中は鮮明な光景が映り始め、過去の記憶も少しずつ引き出されていた。
夜中に目覚めると、関羽に抱き付きながら眠っている郭嘉の姿が視界に映る。
逃げようと思えば逃げることはできた。耳を切り落とされた箇所が完治してから鍛錬を始め、今も怠らずに毎日している。だから以前のような戦いもできるし、その時の勘も取り戻していた。しかし、目の前の郭嘉が眠る姿、そして、眠る前に必ず口元から吐き出される郭嘉の言葉を聞いていると、どうしても逃げるという行動をすることができなかった。
郭嘉が城へ仕事に行っている間に逃げようと考えたことは幾度かある。猫族の仲間たちがどこへ逃げたのかも分からない関羽は、彼らを探したいという強い思いが湧き起こった時にその考えが出たのだが、
僕の姉さんに似てるんだ――
郭嘉のお遊びである拷問を受けた時に聞き逃さなかった言葉が、関羽のその決心を鈍らせた。
趙雲を殺し、関羽を捕えた時とは全く正反対の表情や態度を見せる郭嘉に記憶を取り戻した当初は戸惑いをしたものの、自分に向かって差し伸べてくる両掌が頼りなく見えて振り払うことができなかったのだ。
「姉さん、お願いだから薬を飲んで!」
郭嘉の必死な懇願の言葉が内耳を流れ、関羽の意識は現実に引き戻された。
胸に片掌を当てて一つ深呼吸をすると、全身が落ち着き始めた。
「大丈夫よ。頭痛じゃないの」
そう――
頭痛ではない。
愛する趙雲を亡くした胸の痛み。そして、猫族の行方が分からず心配するあまりに胸が痛むのだ。
尋ねることができるのならばしたい。しかし、郭嘉の前で姉を演じている関羽に、趙雲と猫族の名を出すことはできない、その辛さの痛みで苦しんでいたのだ。
「頭痛じゃないって……」
郭嘉が心配そうに関羽の顔を覗き込む。
趙雲は関羽の目の前で息を引き取った――
その亡骸がどこに埋められたのかは分からない。しかし恐らく、趙雲の亡骸は乱雑な扱い方をされたのだろう。
猫族の行方も外に出れば、どこかで情報を得られるだろうかと考えた。しかし、外に出ても猫族の名前など一度も聞くことができなかった。
猫族は人間から十三支と呼ばれ蔑みの対象となっている。その名さえ口に出すのが嫌なのだろうし、猫族にそのような感情を持つ民に彼らの行き先など分かるわけがない。
知る者は――
関羽は以前の記憶から、もう一人の男の顔を思い出していた。
曹操――
彼は猫族の力を欲していた。それが何故か、途中から関羽のみとなっていたのだ。
賈栩が兵士に命令を下し、子ども達が殺された。
助けたかったのに――
その子どもと郭嘉の姿が、関羽の記憶の中で重なる。
姿は大人なのに、心は子どものままの郭嘉――
関羽は不安定な感情を持つ郭嘉を放っておくことができない。
以前、誰かに猫族はお人よしだと言われた。
本来ならば、郭嘉は関羽にとって憎い敵。しかし今、関羽の中にそれはない。
憎いから戦ってどうする?
郭嘉を殺すことなど簡単だ。しかし、それで趙雲は戻って来る?
行方が分からなくなった仲間たちが自分のもとへ戻って来るか?
関羽は耳がなくなった場所にそっと手を乗せる。
これでいいのだ――
人間と猫族の混血である関羽。
人間にもなれず猫族にもなれず、関羽の立ち位置は不安定――
耳は好きだった――
柔らかくて、形の良かった猫耳だ。しかし、この地で暮らしていくには、あの耳は邪魔だった。
「ありがとう、郭嘉……」
何故か、関羽の口から感謝の言葉が流れ出る。それを聞いた郭嘉が首を傾げた。
「急にお礼なんてどうしたの?」
耳を切り落としてくれてありがとう、なんて言えない。
「ううん、心配してくれてありがとうって言ったのよ」
関羽はそう言うと立ち上がる。
愛する者も仲間も今、関羽の傍にはいない。心元ない中で目の前の郭嘉の存在が、関羽の今を支えてくれている。
酷いことはされたが、その後の郭嘉は関羽を姉と慕い、とても親切にしてくれている。
お人よしだと誰に言われようが、もういいのだ。
関羽は心の中で趙雲と仲間たちに言葉をかけた。
趙雲、みんな――
私は大丈夫――
「さあ、夕食にしましょう! そして早く寝ましょうね。今日もあの歌を歌ってあげるから……」
立ち上がった関羽は郭嘉の両手を握りしめてその場から立ち上がらせていた――。
「耳がない……?」
「はい、十三支の象徴である耳がありませんでした」
しかし、関羽の姿を幾度か見ている間者は、郭嘉が囲っている女が関羽である可能性が高いと夏候惇に説明をした。その情報を夏候惇は曹操に早速伝える。それを聞いた曹操の口元が微かに緩んだ。
「明日、私が郭嘉の屋敷に行こう」
「曹操さま自ら、赴かれるのですか?」
「ああ…… そうだ…… 呼んでいるのだ。あの者の血が、私を、な……」
関羽が死んだと聞いた後の曹操は、大陸中に間者を放した。それでも見つからなかった。それでも曹操は探し続けていたのだ。
あの関羽にどれ程の価値があるのか――?
武将としての価値は夏候惇も認めるところがある。しかし、曹操はそれだけの為に関羽を欲しているように思えなかった。
関羽の血が曹操を呼ぶ――
夏候惇は曹操の言葉の一部に引っ掛かりを覚える。
同じ血――
同胞だとすれば、曹操が十三支であるということだ。しかし、彼に猫耳はない。
では、血が呼び合うというのは――
夏候惇は混乱する頭の中を無にする為に、明日のことに意識を集中させた――。
郭嘉の屋敷は、人里離れた場所にぽつんと建っていた。
馬上の曹操が地に足を下ろす。それに倣って、夏候惇も馬上から降りた。
兵士たちが屋敷周りを囲む。その中を曹操が玄関口に向かって歩き始めた。
「郭嘉は城にいるのだな?」
「はい、城を出る前に姿を確認しました」
曹操と夏候惇は短い会話をしながら玄関の取手に手を掛けた。
「頑丈な鍵を掛けているのだろうか?」
曹操はそう呟くと、自分の腰から剣を抜き出し、それを高く掲げた後に思い切り強く振り下ろした。
金属音が静かな村はずれの中に響き渡る。玄関は一瞬にして壊され、曹操と夏候惇がその中へ足を踏み入れた。
部屋の奥へと歩みを進める。
「…… 逃げたか?」
「いえ、そのような物音は聞こえませんでした」
曹操が部屋の一番奥の扉を開ける。そして、息を呑み込んだ。
「…… 関羽……」
曹操の口元から十三支の女の名が紡がれる。背後にいた夏候惇も部屋の中を覗き込むと、関羽の変わりように目を見開いた。
静かな声音で歌を口ずさんでいる。その歌には聞き覚えがある。
過去にも幾度か聞き、最近も郭嘉の口元から流れ出ていた歌。
耳もなくなっている関羽の姿は、誰が見ても人間のようだ。
何かの気配に気づいたのか、関羽が扉の方に顔を上げた。そして、曹操と夏候惇の姿を視界に止めた瞬間、表情を強張らせた。その表情を見て、曹操が吐息を含めた笑み声を放つ。
「ふっ…… 私が誰だか分かっているようだな?」
あれだけの大きな音が聞こえなかった。そして、この部屋に入った時にも気づかなかったということは、関羽の耳は聞こえにくい状態にあるのだろうと、曹操と夏候惇には理解できた。
曹操が警戒をする関羽に歩み寄り、その場に跪く。
「迎えに来た…… さあ、私の手を取れ、我が同胞よ……」
気づくのが遅すぎた関羽だが、曹操の手から逃れようと咄嗟に逃げる体勢を作った。しかし、その努力は報われなかった。
曹操の両腕が関羽の腰に絡まる。それでも逃げようと関羽は足掻いた。
「何故、逃げる? 私とお前は同じ血で繋がっているというのに……」
「ど、どういう意味? …… うぅっ!」
腹部に激しい痛みが一つ起こり、関羽の身体が言うことを聞いてくれない。その痛みに耐える暇もなく、関羽の首の後ろにもう一つ、鈍い痛みが生じた。
意識が薄れる中で身体が崩れていくのを感じる。その中で、形のなくなった耳元で曹操の囁きが聞こえた。
ようやく、見つけた――
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